「白紙の傑作」
をはち
「白紙の傑作」
芥川家の血筋は、文学の闇に沈む一族だった。
末端に、芥川咲夜という男がいた。
五十を過ぎた作家。名を成したといえば成したのだが、彼の作品はどれも「そこそこ」の域を出なかった。
批評家は優しく扱い、読者は忘れ去る。それで十分だった。
食えれば、それで――
彼は決して血筋を口にしなかった。先祖の名を借りれば、必ず比べられる。
比べられるたびに、自分の貧しさだけが浮き彫りになる。それが耐えられなかった。
先祖は晩年、偏頭痛に苦しめられた。世間は薬の副作用だとか、酒のせいだとか言った。だが咲夜は知っていた。
あれは薬でも酒でもない。
先祖から、密かに伝えられたものがあった。木槌。古びた、どこにでもあるような木槌。
握りの部分に、かすれた墨で「芥川」とだけ彫られている。
それで自分の頭を叩けば、言葉が生まれる。新しい、鋭い、誰も到達し得なかった言葉が。
叩くたびに、脳髄の奥底から何かが噴き出す。痛みとともに、傑作が湧き上がる。
先祖は使いすぎた。
だから偏頭痛に苛まれ、最後には筆を折った。いや、折らざるを得なかった。痛みが、言葉を奪ったのだ。
咲夜は長年、慎重だった。
軽く、小さく、こつんとやるだけ。それで「そこそこ」の小説がいくつも生まれた。
賞も取った。印税も入った。生活には困らなかった。
だが、代表作はなかった。
「芥川咲夜といえば?」と訊かれれば、誰も即答できない。
それが彼の呪いだった。
五十を過ぎて、鏡を見るたびに思う。もういいだろう。もう、こそこそ生きるのは。
本気で叩けばいい。強く、容赦なく、自分の頭蓋を砕くほどに叩けば――
人類がまだ見たことのない言葉が生まれる。それを書けば、歴史は塗り替わる。先祖の名など、すぐに霞む。
咲夜は机に向かい、原稿用紙を置いた。
そして木槌を手に取った。古い木の匂いがした。血の匂いのような気もした。彼は微笑んだ。
「これで終わりだ」
息を吸って、高く振り上げる。そして、思い切り振り下ろした。鈍い音が部屋に響いた。骨が砕ける音。肉が弾ける音。
咲夜は倒れ、床に血が広がった。
木槌は手から離れ、ころころと転がった。
意識が遠のく中、彼は確かに見た。言葉が降ってきて、原稿用紙を埋めていくのを。
黒い、恐ろしい、美しい言葉。完璧な傑作。これだ、と思った。これで俺は――
翌朝、新聞の一面が騒がしかった。
『文豪芥川の血縁・芥川咲夜氏、自宅で木槌により自殺か代表作なく苦悩か
机に血まみれの原稿用紙 何も書かれていなかった』
記事は続いた。
「発見された原稿用紙は真っ白だった。ただ、紙の表面に、頭蓋骨の形をした血の跡が残っていたという」
誰も気づかなかった。咲夜の最後の笑みを――
木槌は今も、誰かの家に転がっている。あなたの手元に、届くかもしれない。
「白紙の傑作」 をはち @kaginoo8
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