第3話
反転式ペン…日本式ペンの亜種にあたるマイナーなラケットだ。日本式ペンは基本的にラバーを片面にしか貼らない、あるいは貼る面積が限られていることが多いけど、反転式ペンは一転して両面にラバーを貼ることを前提とするラケット。両面に貼ることが多いペンとしては中国式ペンも該当するけど、根本的な違いはどうだろうか…。
中国式はシェークハンドに近い形状をしたペンで、ドライブを多用するカウンター戦術を得意とし、回転力の強い裏ソフトと併用されることが多い。一方で両面版日本式ペンとも言える反転式ペンは、カウンターを使う頻度は減る代わりに手首ではなくラケット自体を頻繁にひっくり返す。中国式は表裏一体の一貫した戦術を取る一方で、反転式は2枚のラバーを臨機応変に使い分けて二面性のある戦術を取ると言ったところだろうか。
だけど、そのラケットの反転がスムーズできるようになるには優れた器用さと練習が必要だ。ハッキリ言って反転式ペンの難易度は他のペンホルダーより高いと言える。反転式を使う人はほとんどいない。僕もそれを使う人を見たことはない。反転式の戦術も単なる推測の域を出ない。超上級者向けのラケットだ。いやだからと言ってプロがよく採用している訳でもないけどさ。どの道、素人がいきなり扱うようなラケットでは…。
「せっかくだし、こういう珍しい物を使ってみたいよね。卓球って意外と奥が深いみたいだし。そうした方が面白そうだよ。」
本当に、ただ卓球で遊ぶ為に部活を建てたのか。世の中にはこんな人もいるんだ…。僕も卓球の色々な部分を見てきたはずなのに、いつの間にか視野が狭まっていたのかもしれない。そうだ、そうやって視野を狭めていたら…走れないからサボっているのと同じとか言ってる奴らと同じじゃないか。不遇な目に遭ってきた身としては、こういう純粋に卓球を楽しもうとしている人を支えてあげる必要がある。そんな気がする。よし、じゃあ僕なりにそのラケットをちゃんと使えるようにできるだけのサポートをしよう。
大井さんは反転式ペンで行くとして、もう1人…野石さんだったっけ?はどういうラケットにするんだろう?
「私は普通にシェークで行くよ…。まずは普通にやっていきたいし。」
良かった、こっちはキワモノを好んで使う素振りは無さそうだ。
「…ただ、これを使いたい。」
そう言うと、野石さんはカバンから卓球のラケットを取り出してきた。それも公式試合に使える物。あれ、僕以外卓球経験者はいないんじゃ…?
「これはお母さんが使っていた物。私自身はやったことない。」
親が卓球をやっていたから興味を持ったってことなのかな?でもどうして高校生というタイミングで卓球をやろうと思ったんだろう?まあ、今までほとんど関わってなかった人にそこまで聞いても良くないか。
…これはラバーが大分使い込まれてる。ラケットはともかく、ラバーは両面とも張り替えた方が良さそうだ。それにしてもこのラバー…たしか近年発売されてつい最近廃番になった物だ。今回用意した最新版のカタログには載っていない。もしかして、母親は今も卓球を続けていたりするのかな?
「今は卓球してないはず。」
はず?親のことがハッキリわからないのか?…やっぱり色々聞くのはやめておいた方が良さそうだ。
それより、ラバーも考えないと。野石さんのラケットはラバーを同じ物で貼り直すと言うわけにはいかない。廃番で入手性が悪いし。このラケットは両面裏ソフトで、赤面は球速重視、黒面は回転力重視とよくある構成だ。ひとまず、同じメーカーで似たようなラバーを採用してみようか。
問題は大井さんのラケットだ。現代卓球の標準装備である裏ソフトをペンでやるのはお恥ずかしながら経験に乏しい。ちゃんと教えられる自信が無いぞ…。とりあえず赤面を回転重視の表ソフトにして、黒面は…粒高をやらせてみようか。表ソフトと粒高の組み合わせはマイナーだけど、無い組み合わせではない。今までの卓球人生でも1、2人は表ソフトと粒高を併用している人を見かけた気がする。逆に言えば、それ位表ソフトと粒高を併用する人は少ないと言うことでもある。ただでさえマイナーな反転式ペンに更に…と言うほどでもないけどマイナーな表ソフトと粒高の組み合わせ。まあ大井さんもそういうのが好きだろうし丁度良いだろうか。
そうして用具関係を話し合って、初日の部活動は終わった。一応の面目を保つ為に、監督の先生や幽霊部員組も顔合わせてはいた。先生は偶に様子を観に来るそうだけど、幽霊部員はもう部活に来ることは無いだろう。
ただ、ちゃんと部活をやる組にしても用具が無ければ、次回やることに乏しい。この周辺に卓球の専門店なんて無いし、総合スポーツ店では揃えられない物も多い。特に大井さん用のは。紹介した専門通販でそれぞれの用品が届くまでは部活動は休止だろう。
そう思っていたら、翌日の放課後に野石さんが話しかけてきた。その手には卓球のラバーがあった。話を聞くと、スポーツ店を探して見つけたのだそう。性質が近いとは言え予定とは違うラバーになったけど、これで野石さんは張り替えすればすぐに卓球を始めることができるだろう。張り替えに使う道具なら僕が持っているし。それにしても、部活の再開は数日後ってことになったはずなのに、ここまでするなんてそんなに卓球がしたかったのだろうか?
そう言えば基本的であろう質問でまだ言っていないことがあったな。野石さんはどうして卓球部に入ったんだろう?ラバーの張り替え作業中に聞いてみた。
「大井さんに誘われたから、っていうのは小張君と同じだよね。あとは…卓球をやってみればお母さんの気持ちが少しでもわかるのかなって。」
続きを聞いていると、衝撃的な話だった。母親と並々ならぬ関係だって言うのは予想していた。けど、その母親が只者じゃなかった。野石 麻里奈、女子卓球の元プロ選手だ。世界大会の経験もある超実力者。その娘が目の前にいる野石さんと言う訳だ。
野石さんが言うには、娘の教育方針の違いで夫婦仲が悪化しており、父親は卓球の英才教育を施そうとしていたけど母親がそれに反発。仕事の都合関係無く別居しているような有様なのだそう。野石さんにとって、卓球とは家族の仲を引き裂く悪い文化のように捉えているようだ。家族の前では卓球の話が出て来ないように話を逸らし続け、世間に親の職業をできるだけ隠して生活してきたのだそう。それでも今回卓球部に入ろうと思ったのは、この学校が卓球にあまり力を入れていないことから好奇の視線を向けられる恐れが小さいこと、卓球を忌避し続けるうちに興味が湧いてしまっているのだそう。と言うよりは、大井さんに頼まれたからついでに卓球に触ってみようって魂胆なんだろう。ラバーをスポーツショップで買ったのも、専門通販だと届いた荷物を親が受け取る可能性があり、両親に卓球に興味を持っていることがバレるのを防ぐ為だったようだ。
つまり、野石さんは親に隠れて卓球を始めようとしている。両親に卓球をしていることを知られたら修羅場に発展する恐れがある。でも卓球に対する興味を捨てきれずにいる、と。…うん?じゃあこのラケットはどうしたんだろう?
「これは寮に引っ越す時、お父さんに自分の部屋に飾っておけって言われた物。親の凄さを忘れないようにとか、親も苦労して人生を勝ち上がって行ったんだ、とか言ってた。」
な、なんなんだそれは…。親と言うよりは偉人に向けるような態度じゃないのか?…そこはひとまず置いといて、そのラケットが部屋に無いことがバレたら大変なんじゃないのか?まあ、寮暮らし…寮?寮で暮らすなら通販でも問題ないんじゃないのか?
「ここの寮、通販禁止だから…。」
…そういうことか。そういうところは流石田舎の公立だ。しっかし寮か、もしかして家庭の関係を保つためにあえて?…いや、流石に考えすぎか。その後も、2人以外誰もいない教室でラケットにラバーを貼る作業をしながら話を家族以外の話題で続けた。大井さんとの関係から趣味や好きな食べ物、お気に入りの場所まで。思いの外話は弾んだ。一言一言素っ気無く感じる彼女だけど、顔をよく見てみれば他愛の無いことで微笑む情緒豊かな少女に感じられた。それだけに家庭ではどんな顔をしているのか不安になってしまう。
ラバーの接着剤も乾き、試し打ちも兼ねて2人だけで部活を始めることにした。
「今更だけど、部活の予定が無かったはずなのに用具を持ってきてたんだ?」
卓球用具は授業用のジャージなどが入ったスポーツバッグに一緒に詰めてある。使わない日はただの重りだけど、一緒に管理しておけば忘れる心配も無いからね。それに今日のように咄嗟の時に役に立つこともある。
「…意外とズボラなんだ。」
シェークハンドの基本的な握り方や振り方を教えて、基本的なラリー練習を始めた。流石に筋が良い。素人とは思えない位打ち合いが続いている。ここでワザとボールを高く打ち上げてスマッシュを促してみた。ラケットはボールに当たらず、卓球台にぶつかった。
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