穴ふたつ

香久山 ゆみ

穴ふたつ

 私の身体は生来、人よりも穴が一つ多いのです。

 ふつうの人には空いていない場所にある穴。隔世遺伝らしい。

 つるりとした白い肌に、ぽつんとそこだけ異質な小さな窪みが口を開いています。

 幼い私は何度となくそこに指を突っ込んでみたりしましたが、怖くて痛くて入口より奥には進めたことがありません。また、そんないたずらをしているのを見つかれば、すぐに母に手を叩かれ、こっぴどく叱られました。それで就学年齢になるまでには、迂闊に触れることもしなくなりました。子ども心に、なにやら畏ろしい穴だと認識したのです。

 滑らかな肌が、その部分だけきゅうっと私の体の内に吸い込まれるように収縮していきます。落ち窪むことによりできた皺と、外の部分より少しだけ濃い色をした穴のふち。体を捻ってなんとか中を覗き込もうとするも、どうしても見えない。一体この穴はなあに? どこに繋がっているの?

 母からは、けっして人にはばれないようにしなさいと、厳しく育てられました。

 だから、水泳の授業は見学だし、銭湯や温泉にも行ったことがないし、修学旅行も諦めました。友人の家にお泊りに行くという経験もついぞないし、気付けば友と呼べる人もいないまま大人になりました。


 やりたいスポーツや、なりたい職業がなかったわけではありません。けれど、選択は難しかった。実習や宿泊研修を伴うようなものははなから無理だし、リスクを考えるとあまり他人と関わるようなことは避けるしかありませんでした。

 そうやって何でも避けてきた私だから、何の特技があるわけでもない。

 穴が多い以外は何の取り柄もない、平凡な私。

 起業やフリーランスの仕事をする程の能力は当然ありません。一人黙々と作業できるだろうと事務職に就きました。就職してから、事務職とは想像以上に他人と関わらねばならぬ仕事だということを知りました。狭い世界で生きてきた私は、そんなことさえ知らなかったのです。


 そうして、私は恋をしました。

 けれど、この恋が実ることはありません。誰にも言えない大きな秘密を抱えているから。

 取引先の営業社員である彼は、私とは違って、オープンな人です。明るく友人も多い。他社であるうちの社員とも、まるで自分の職場みたいに打ち解けて、名前までちゃんと覚えているのです。

 そんな調子だから、私にも気兼ねなく話し掛けてくれます。どんどん彼に惹かれていく。いつの間にか、彼からの外線電話を待ち詫びる私がいる。

 苦しい。


 プロジェクト案件の打ち上げで、合同で食事会が開かれることになりました。

 たまたま彼の近くの席になって、緊張してがばがば慣れないお酒を呑んで、トイレでげろげろ吐いて出てくると、皆はとっくに二次会へ繰り出したようで、店の前にはもう誰もいませんでした。――彼以外は。

「大丈夫?」

 彼は気遣わしげな表情を向けます。

「あの、私大丈夫ですから。行ってください。人気者がいないと、盛り下がっちゃう」

 おろおろ答えると、彼はふふっと笑いました。

「俺、そんな人気者じゃないから。買い被りだよ」

 そう言われて、真っ白だった私の顔がさっと赤くなりました。買い被りだなんて、私が彼のことを特別視していることがばれてしまったのではないかと。いえ、落ち着け。彼は気を遣ってくれているだけです。同じ卓を囲んだ私を心配してくれたのでしょう。現に、彼のスマートホンは先程からチカチカと着信ランプが明滅している。同僚達が彼を待っているに違いない。

 けれど、彼はスマホをそのままポケットにしまってしまいました。

「明日の朝から大事な取引があるから、もとから二次会には行かないつもりだった」

 彼はそう言いましたが、嘘です。会合の前に、彼は同僚と二次会はどうするかと話していましたもの。

 こんな私のために気を遣わせてしまって、本当に申し訳ない気持ちで苦しくなりました。同時に、好きだと思いました。彼のことが好き。とても好き。本当に好き。改めてそう自覚して、いっそう苦しくなりました。秘する穴の部分がもぞもぞと締め付けられるような思いがしました。それから、ふつうに気分が悪くて、電信柱の陰の側溝にげろげろ吐きました。彼に背中を擦られながら、なんだかもう泣きそうでした。

「ちょっとどこかで休憩していく?」

 ふらふらで歩くのもやっとの私に彼が言いました。私は彼のコートにしがみついたまま、ぐらぐらする頭でこくんと頷きました。


 公園のベンチに座らせて、彼は自動販売機で冷たいお水を買ってくれました。

 鞄から財布を出そうとすると、「いい、いい。失くすからしまっといて」とごちそうになりました。

 お水を飲んで、冷やりとした夜風に当たると、少し気分もましになってきたようです。

 彼の話す声が耳から体へ、心へ、すうっと通り抜けます。

「あの提案のプレゼン資料作ったの、きみだろ。丁寧で分かりやすくて、初見で感心した。資料を見ればきみが作成した物だって分かるよ」

「電話の応対も親切だ。相手の会話をちゃんと最後まで聞いて回答するよね」

「さっきの飲み会でも、皆に料理を取り分けたり注文したりで、ほとんど食べてないだろ? 空腹で呑むと酔っ払うから気を付けなよ」

「駅で迷子の子どもを助けようとして、大泣きされて、きみまで泣きそうな顔をしながら駅員のところまで連れて行ってあげているのを見かけたことがあるんだ」

 この人は、本当に人のことをよく見てらっしゃるんだなあと感心しました。その中に自分が含まれていることが、くすぐったくて誇らしい。

「好きだ」

 彼が言いました。

 聞き間違いかなと思いました。そしたら、今度はじっと真っ直ぐに私の方を見て、もう一度同じことを言いました。彼の大きな手が、私の冷たい手の上に重なっている。その温かさが心地よくて、私は逃げることもできませんでした。

 酔っているのかと問うと、酔っていないと言う。酔っているのはきみの方だろ、と言って笑います。ほんのり顔が赤いので、やはり酔っているのかもしれない。

「私は、人より穴が多いんです」

 ほろりとそう告白したのは、きっと酔いのせいです。

「人は誰でも空虚さを抱えているものだよ」

 彼は優しく微笑みました。どうやら文字通りには伝わらず、精神的な話だと思われたようです。

「僕はきみの穴を埋めたい」

 そう言って、彼はそっと私を抱き寄せました。

「……しまった、今のはちょっとセクハラっぽかったかな」彼がそう言って、私達は笑いました。

 それで、私は彼の背中に腕を回しました。ぎゅっと彼の大きな体を抱き締めました。


 ――「あんたは恋をしてはいけないよ」

 母の声が頭の奥で聞こえた気がした。


 彼との交際が始まりました。

 恋愛とはエネルギーを消費するものなのでしょうか。お腹が減って仕方がない。こんなに空腹なのは思春期以来です。けれど、助けてくれる母はもういません。


 彼は、私のペースに合わせて少しずつ少しずつ関係を進めてくれました。

 それでもついに、キス以上を考える段階になりました。

 のらりくらりと躱していたけれど、週末に彼が私のアパートに泊まることになりました。

 どうしよう。

 どうもこうもない。いつまでも隠しておけるはずもないのだ。さすがにはっきりと告白するより他ないだろう。


 けど。


 私は自らの「穴」に手を当てて考える。けれど、また、私の穴が大切な人を食ってしまったら――。


 いや。私は首を振る。違う。母がいなくなったのは、穴のせいじゃない。大きく口を開いた穴が母を飲み込む。それは後から見たただの夢だ。


 約束通りに、彼を家に招きました。

 誰かと同じ時間を過ごすのは、母がいなくなった高校生の時以来で、懐かしいようなほろ苦いような感じがします。そう思ったのも束の間のことで、すぐにこの空間に彼と二人きりであるという事実に居たたまれなくなる。

「あの、映画でも観ますか?」

 言ってみるが、彼は黙ってじっと私を見つめたまま腕を取り、唇を重ねます。離れたと思ったら、また。粘膜。濃厚接触。唇の間にぬるりと入り込む。唾液の混じる音、頭がぼーっとなる。

 彼が私の服に手を掛けた時、はっと我に返りました。

「だめ! まって」

 私は力いっぱい彼を押し退けましたが、びくともしません。けれど、止まってくれました。

 もうだめだ、言うしかない。

「あの……」

 私は、自らのお腹の真ん中にある「穴」のことを告白しました。

 彼は笑わずに聞いてくれました。

 そうして、それは「へそ」である、と彼は私に説明してくれました。

 へそ?

 母の言いつけで、自分の裸を見せなかった私は、他人の裸も知らなかったのです。


 へそ。

 へそは、人間を食べません。

 ならば、母はどこへ?

 そして、幼い記憶の中の母。何度も風呂に入れてもらいました。母の少しふくよかで柔らかくつるりとした白い腹には、確かに穴などなかったのです。


 やさしい彼とは、一歩ずつ愛を育んでいきました。

 私は母になります。

 臍の緒をつたって我が子は腹の中で育ち、日に日に大きくなっていきます。

 臍のない母は、どうやって私を産んだのでしょうか? 私は本当に母の子なのでしょうか? インターネットで「へそのない妖怪」を検索してみたけれど、そんなもの見つかりませんでした。我ながら馬鹿げたことです。

 母の行方は誰も知りません。

 私が高校を卒業した翌朝、起きると家にはもう母の姿はなかったのです。あの悪夢だけを残して。

 じきに赤ん坊が産まれてきます。

 もしかすると、赤ん坊はつるりと穴のない腹をしているかもしれない。

 そんなことを夢想します。期待しているのか、畏れているのか、自分でもよく分かりません。

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