第3章【特務部隊結成】
第9話「或る男の補遺」
彼はごくごく平凡な家庭に生まれ、ごくごく平凡な人生を歩むことを約束されていた。非凡な才は少なくとも表面上は見受けられず、またその才覚を必要としない、幸福な環境であったのは、偏に彼の生きる世界、生きる時代は彼が平凡でいることを許容出来るほどの余裕を湛えていたのだ。
朝は倦怠感と共に眠りから覚め、政治家の醸す下らない茶番劇を液晶越しに眺めてトーストを齧り、慌ただしく制服に着替えて学校へ行く。昼は食欲の満足感に浸りつつ、そう多くない友人と談笑して過ごして、夜は日常と家族への感謝に包まれて眠る。
彼の、大して長くもない人生の大半はその殆ど機械的に、しかし本人にとっては非常に有機的かつ有意義な反復に終始した。多少変化することがあるとすれば、年齢の変化と、授業の変化、学校の変化、そして毎日読み耽る歴史書のページ数であっただろう。彼は洋の東西や時代の好嫌もなく、人類が歩んできた歴史全体に情熱を捧げる男だった。ただし、自己肯定感は人一倍低く、極めて広範かつ深度にも富んだ己の歴史知識を“人より、多少知っている程度”と評価するなど、幾つかの矛盾を精神の内外に孕んでも居た。
こんな事があった。高校生最後の年、夏を目前にOBである大学教授が学校へ訪問してきたのだ。何でも、著名な大学の著名な歴史学関係の教授とのことで、丈二は脇目もふらず彼に話し掛けてみたのだ。
教授は丈二の歴史学的質問全てに一定の解答を示したが、同時に「君の知識範囲は、もはやそこら辺の教員を遥かに超えている」とも評した。
「もし君に意思があるなら、進学した時は私の研究室に来なさい」────柔らかく云った老教授の、仏像にも似た顔はしかし、丈二の勤勉さの守護天使を活発にさせるカンフル剤にも似た効果を齎した。生涯の師に出会えたという確信は、歴史学的見地に重きを置く丈二の歴史学的直感によるものだった。
果たして、彼は受験の舞台に立つことは無かった。
受験を間近に控えたある冬の朝、受験対策の大詰めを終えて散歩をしていたところ、一人の少女が川で溺れていたのだ。悲鳴を上げ、水面から上下するその少女は、一瞬でも目を離せば川底の泥に埋もれんばかりの勢いだ。周囲に人影はなく、また目に見えて衰弱し始めている様を見るに救助を呼ぶ時間すら惜しい。
丈二は決心した。僅かな勇気を巨大な使命感で嵩増しして、しかし膨れ上がった防寒服は脱ぎ捨てて冬の川へ飛び込んだのだ。
丈二は元々、運動が得意ではなかったが、老教授と出会って以後の生活ではすっかり勉学の徒と化していて、この時は完全に成長期かつ学生にあるまじき貧相かつ貧弱な運動神経へ退化してしまっていた。
泥の中で足がつり、心臓が異常に速く血液を循環させる中、やっとの思いで少女を川岸へ運んだ時、丈二はふと眠りに落ちてしまった。疲労による脱力と達成感とが、彼に生命の満足を与えてしまったのである。
次に目が覚めた時、彼は開闢暦に生まれた住人────一人の妹と二人の両親に囲まれて生きる、ジョージ・ミュラー少年であった。
「歴史に神はいないが、神が乗り移ったように活躍し続けた英雄はいる。英雄とは、才能の神と時運の神、そして運命の女神が三者協賛し合った上で成り立つもので、どれかひとつの神がそっぽを向いた時は、その者はそもそも英雄になれないか、英雄であるとしたら歴史の演壇から降板することを迫られるかの二択になる」
なら、俺は?三浦丈二であるこの俺は、何故、ジョージ・ミュラーとしてこの遥か未来の時代に、再び生を受けた?
歴史学者志望の青年は、ここに人生の再出発点を見つける。それは即ち、己が何故この時代の住人となったかを突き止める為である。この宇宙が、眠りに就いている自己の明晰夢であるか、それとも、三浦丈二という存在自体が、歴史を愛するが故に生み出したレトロリズムが生み出した自己の偶像なのか────答えは決して出ないであろう。だが、探求することは研究者の命題であるのだ…………。
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