第56話 父の威光と、『準備』という名の猶予

(終わった……。完全に、終わった……)


 じり、じり、と金属の鎧が擦れる音と共に、衛兵たちが俺を取り囲む包囲網を狭めてくる。

 磨き上げられた槍の穂先が、俺の喉元や心臓に向けられている。一歩でも動けば、俺の人生はここでゲームオーバーだ。


(最高の『洗い甲斐』があるって言っただけなのに……! 俺の洗い物屋としての純粋な感動が、不敬罪って……! そんなバカな話があるかよぉぉぉ!)


 心の中でどれだけ絶叫しようと、現実は変わらない。

 貴族たちの怒りに満ちた視線が、針のように突き刺さる。玉座の王様は、まるで汚物でも見るかのような冷たい目で、俺を見下ろしている。


「陛下! どうか、ご英断を!」


 カインが、勝利を確信した声で叫ぶ。その顔は、俺への侮蔑と、計画通りに事が進んだ愉悦で、醜く歪んでいた。


「リリアさん……セナさん……クロエ……」


 背後で、仲間たちが絶望的な声を上げているのが聞こえる。だが、王命の前では、Aランク冒険者である彼女たちでも、手も足も出せない。

 もう、ダメだ。

 俺は、このまま捕まって、暗くて汚い牢屋で一生を終えるんだ……。

 俺が固く目を閉じ、運命を受け入れようとした、まさにその時だった。


「――お待ちいただきたい」


 凛とした、鋼のような声が、謁見の間に響き渡った。

 その声は決して大きくはなかったが、不思議な力があった。あれほど騒がしかった貴族たちの怒号が、まるで水をかけられたかのように、ピタリと止んだのだ。

 俺も、仲間たちも、そしてカインでさえも、ハッとして声のした方へと視線を向ける。

 謁見の間の入り口に、一人の男が立っていた。

 プラチナブロンドの髪。背筋は天を衝くかのように真っ直ぐに伸び、その身にまとったギルドマスターのマントが、まるで王の外套のように威厳を放っている。


「ち、父上……!?」


 カインが、信じられないものを見るような目で呟いた。

 レオルド・フォン・アークライト。

 だが、その姿は、俺が知る苦悩に満ちたギルドマスターではなかった。呪いという『汚れ』が洗い流され、本来の輝きを取り戻した、かつての『歴戦の英雄』そのものの姿だった。


「レオルド卿……なぜ、ここに……」


 玉座の王が、驚いたように問いかける。

 レオルドさんは、王に向かって静かに一礼すると、ゆっくりとした、しかし揺るぎない足取りで俺の前まで歩いてきた。そして、俺を取り囲む衛兵たちを、鋭い視線で一瞥する。

 たったそれだけで、屈強な衛兵たちが、びくりと肩を震わせたのが分かった。


「父上ッ! 何をなさるおつもりです! その男は、我が国の至宝を『垢』と罵った不敬罪人! 即刻、捕縛すべきですぞ!」

 カインが、ヒステリックに叫ぶ。

 だが、レオルドさんは息子に一瞥もくれず、再び王へと向き直った。


「陛下。我が息子の言う通り、彼の言葉は、確かに不敬と捉えられても仕方のないものでしょう。ですが――」

 レオルドさんは一度言葉を切ると、謁見の間全体に響き渡る声で、堂々と続けた。

「最高の『仕事』には、最高の『準備』が必要不可欠。それは、いかなる職人であろうと当然の権利のはず。違いますかな?」


 職人の、権利。

 その言葉に、貴族たちがざわめき始める。


「な、何を馬鹿なことを……!」

「職人だと? ただの山師風情が……!」


 反論の声が上がるが、レオルドさんは動じない。


「彼は、浄化師。いわば、『汚れ』を落とす職人です。彼にとって、あの王冠は、ただの『汚れ』の塊にしか見えなかったのでしょう。ならば、最高の洗い甲斐がある、という言葉は、彼にとっては最大級の賛辞であったはず」

「なっ……! そんなものは、ただの詭弁だ!」

 カインが必死に食い下がる。

「詭弁かどうかは、結果が示しましょう」


 レオルドさんは、静かに、しかし絶対的な自信を込めて言い放った。

「陛下。どうか、この皿井アラタ殿に、三日間の『準備』の猶予をお与えいただきたい。その間に、彼は必ずや、あの王冠を浄化するための最高の『道具』と『手順』を整えてみせましょう。そして、もし三日の後に、彼が王冠を浄化できなかったのであれば……その時は、我がアークライト家の名誉にかけて、いかなる罰でもお受けいたします」


 アークライト家の名誉を、賭ける。

 その言葉の重みに、謁見の間の空気が再び凍りついた。

 カインの顔が、怒りから驚愕へ、そして絶望へと変わっていく。


(す、すごい……)


 俺は、自分の前に立つレオルドさんの広い背中を、ただ呆然と見上げていた。

 これが、英雄の威光……!

 玉座の王は、しばらくの間、黙ってレオルドさんを見つめていたが、やがて、重々しく頷いた。


「……よかろう、レオルド。そなたの顔に免じ、その言葉を信じよう」


 王の裁可が下った。


「浄化師アラタに、三日間の猶予を与える! その間に、浄化の準備を整えるがよい!」

「ははっ。ありがたき幸せに存じます」


 レオルドさんが、深々と頭を下げる。

 その横で、カインは顔面蒼白のまま、わなわなと拳を震わせていた。

 まただ。

 また、この父に、自分の完璧な計画を、公衆の面前で叩き潰された。

 その瞳に宿る憎悪の炎が、もはや父親にすら向けられているのを、俺は確かに見た。


「さあ、アラタ殿。行こう」


 レオルドさんは、俺の肩にポンと手を置くと、踵を返した。

 俺は、まだ状況が飲み込めないまま、リリアたちに促されて、レオルドさんの後についていく。

 謁見の間を出る直前、レオルドさんは足を止めると、俺に向かって悪戯っぽく微笑んだ。


「なに、心配はいらん。君のその腕を、私が保証する」

 そして、彼は、とんでもないことを口にした。

「浄化の助けとなる古遺物が、あるやもしれん。まずは、我がアークライト家の宝物庫へ案内しよう」


 ――宝物庫。


 その言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中から、不敬罪の恐怖も、カインへの恐怖も、全てが吹き飛んだ。


(た、宝物庫……!? 歴史ある大貴族の……!?)


 ごくり、と喉が鳴る。

 一体、どんな曰く付きの『汚れ』が、何百年も眠っているんだろうか……!

 さっきまで絶望に染まっていた俺の瞳は、今、最高の獲物を見つけた職人の、爛々とした光を宿していた。

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