第55話 最高の『洗い甲斐』と、凍りつく空気

カインの絶対的な侮蔑と悪意に満ちた挑戦状。

 謁見の間の全ての視線が、再び俺へと集中する。


(無理だ……。もう帰りたい……。物置の隅っこで、体育座りしながら干し芋とかかじっていたい……)


 心の中で泣き言を呟きながら、俺は盆の上に鎮座する『始まりの王冠』を、恐る恐る見つめた。

 黄金と宝石で飾られた、豪華絢爛な王冠。

 だが、その輝きは、まるで分厚いスモークガラス越しに見ているかのように、どこまでも鈍く、淀んでいる。

 禍々しいオーラが、じわりと肌を刺す。普通の人間なら、これを見ただけで恐怖に竦みあがるだろう。

 だが、俺の目は、そのオーラの奥にあるもの――『汚れ』の本質を見ようとしていた。


(カインは、これを歴代の王たちの『重圧』と『孤独』が吸い込まれた呪物だと言っていたな……)


 俺はゆっくりと目を閉じ、意識を集中させる。

 スキル【万物浄化】の解像度を、最大まで引き上げる。

 すると、見えてきた。

 王冠の表面に、まるで年輪のように、幾重にも重なった、複雑怪奇な『染み』の層が。


(これは……すごい……!)


 思わず、心の声が漏れた。

 一番外側にあるのは、現国王とその数代前の王たちの『重圧』。それは、まるでこびりついた水垢のように、全体を覆っている。

 その下には、何百年も前の戦乱の時代を生きた王たちの『決断』の染み。血と鉄の匂いが混じった、頑固なサビのようだ。

 さらにその奥には、建国王が、まだ何者でもなかった頃の『希望』と、国を建てた後の、誰にも言えない『孤独』の念が、油汚れのようにベットリとこびりついている。

 喜び、悲しみ、怒り、苦悩、決意、そして絶望――。

 この国の歴史そのものが、一つの『複合感情汚染』として、この小さな王冠の中に凝縮されていた。

 アークライト家の小箱が『一族』の歴史の染みだとするなら、これは『国家』の歴史の染みそのものだ。


(なんて……なんて、洗い甲斐のある『大物』なんだ……!)


 胃を締め付けていた恐怖は、どこかへ消え去っていた。

 貴族たちの値踏みする視線も、カインの嘲笑も、もはや俺の意識には入ってこない。

 俺の心は、一人の『洗い物屋』としての、純粋な歓喜と武者震いで満たされていた。

 俺は、カッと目を見開いた。その瞳には、先程までの怯えなど微塵もなく、獲物を見つけた職人の、爛々とした光が宿っていた。

 そして、俺は、その場にいる誰もが予想だにしなかった言葉を、満面の笑みと共に口にしたのだ。


「これは……すごい。何百年分の『王の垢』がこびりついている……! 最高の洗い甲斐がありますね!」


 シン――……。


 時が止まった。

 あれほど騒がしかった謁見の間から、完全に音が消えた。まるで、真空の世界に放り出されたかのような、絶対的な沈黙。

 俺の隣にいたリリアが、信じられないものを見るような目で、俺の顔と貴族たちの顔を交互に見比べている。


「……は? あ、あんた、今、なんて……」


 リリアの小声のツッコミは、誰の耳にも届かない。

 貴族たちは、最初、俺が何を言ったのか理解できずに、きょとんとした顔で固まっていた。

 だが、数秒後。

 『王の垢』という言葉の意味が、彼らの頭の中でゆっくりと咀嚼され、理解された瞬間――。


「「「な……ッ!?」」」


 謁見の間の空気は、一瞬で凍りついた。

 貴族たちの顔から、血の気が引いていく。その表情は、驚愕から、信じられないという困惑へ、そして、最終的には燃え盛るような怒りへと変わっていった。


「き、貴様……! 今、なんと言った……!」

「『王の垢』だと……!? 我が国の至宝を、ただの垢呼ばわりするとは……!」

「不敬にもほどがあるぞ、この物乞いがッ!」


 静寂は破られ、代わりに怒号の嵐が吹き荒れる。

 セナさんは顔面蒼白でわなわなと震え、クロエは無言で俺の前に立ち、盾を構えようとしている。


(え……? あれ……? 俺、何かまずいこと言った……?)


 俺は、最高の賛辞を送ったつもりだった。

 何百年ぶんもの歴史が凝縮された、極上の『汚れ』。これほどの逸品に出会えることなど、洗い物屋として、これ以上の栄誉はない。

 その純粋な感動を伝えたかっただけなのに、なぜ、みんなそんなに怒っているんだ?


 俺が本気で首を傾げていると、その混乱の頂点で、一人の男がゆっくりと一歩前に出た。

 カイン・フォン・アークライト。

 その口元には、抑えきれない愉悦と、完璧な勝利を確信した者の、歪んだ笑みが浮かんでいた。


「――陛下! お聞きになりましたかな!」


 カインは、芝居がかった仕草で王に向かって跪くと、謁見の間全体に響き渡る声で、俺を指差した。


「この男、この国の歴史そのものである『始まりの王冠』を……あろうことか、『垢』と抜かしましたぞ!」


 その言葉が、貴族たちの怒りの炎に、さらに油を注ぐ。


「これほどの不敬、万死に値します! 我がアークライト家の名誉にかけて、断じて見過ごすことはできませぬ!」


 カインはすっくと立ち上がると、その瞳に冷酷な光を宿して、断罪の言葉を紡いだ。


「陛下! どうか、ご英断を! この不敬極まりない山師を、即刻、捕縛なさいませ! そして、法の裁きの下、然るべき罰をお与えください!」


 その声は、もはや提案ではなかった。

 王に決断を迫る、強い意志のこもった要求だった。

 それまで黙って玉座に座っていた王が、ゆっくりと、その重々しい視線を俺に向ける。その瞳には、先程までの好奇の色はなく、冷たい怒りの色が浮かんでいるように見えた。


 カチャリ、と。


 謁見の間の両脇に控えていた衛兵たちが、一斉に槍を構える硬質な音が響いた。

 じり、じりと、屈強な兵士たちが、俺を取り囲むように、その歩を進めてくる。


「ひっ……!?」


 ようやく、俺は自分が絶体絶命の窮地に立たされていることを、理解した。

 最高の『洗い甲斐』があると言っただけなのに。

 どうして、こんなことになっているんだ……?

 リリアやセナさんの悲鳴のような声が、遠くに聞こえる。

 俺は、ただ、迫りくる槍の穂先を、呆然と見つめることしかできなかった。

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