第50話 浄化の余波と、父の覚醒

――意識が、途切れる。

 最高の『洗い物』をやり遂げた満足感と、仲間たちの温かい想いに包まれながら、俺の意識は、心地よい深い闇の中へと、静かに沈んでいった。


 ◇


「アラタッ!」


 リリアの悲鳴のような声が響いた。

 怨霊が光の粒子となって消滅したのと同時に、糸が切れた人形のようにガクンと前に倒れ込む俺の体を、間一髪でリリアが駆け寄り、抱きとめる。


「しっかりしなさい、アラタ! 目を開けて!」


 揺さぶられるが、俺の意識は戻らない。ただ、すぅすぅと穏やかな寝息を立てているだけだった。全身全霊を使い果たした魂が、安らかな休息を求めているかのように。

 工房には、嘘のような静寂が戻っていた。

 先程までの死闘が幻だったかのように、床には血の一滴も、怨念の欠片すら残っていない。ただ、窓から差し込む月光が、呆然と立ち尽くす仲間たちを静かに照らしていた。


「……終わった、のかしら……」


 リリアが、信じられないといった様子で呟く。

 その視線の先――寸胴鍋の中央に、それは静かに浮かんでいた。

 アークライト家、何百年もの歴史の呪いが凝縮されていた、あの小箱が。


 誰もが、息を呑んだ。

 禍々しい黒檀の色をしていた小箱の表面から、まるで古いニスが剥がれ落ちるように、黒い色が失われていく。その下から現れたのは、白銀の輝きを放つ、美しい木目だった。

 そして、変化はそれだけではなかった。

 小箱の中央に埋め込まれていた、血のように赤黒い宝石。それが、内側から淡い光を放ち始めたかと思うと、その色は見る見るうちに変わっていく。

 憎悪の赤が薄れ、後悔の濁りが消え、やがて、まるで嵐が過ぎ去った後の夜空のように、どこまでも深く、澄み切った青色へと――。

 もはや、それは呪物ではなかった。

 まるで、何百年もの間流し続けた涙を、ようやく流し終えたかのように。

 清浄なオーラを放つ、聖遺物と呼ぶにふさわしい姿へと、生まれ変わっていた。


「なんて……なんて、美しい……」


 セナが、うっとりと涙を浮かべながら呟く。

 エリアーナは、その光景を前に、ただ震えていた。

「歴史の淀みすらも……。これほどの浄化、神代の伝承にすらございません……」


 その奇跡を、誰よりも深く感じ取っていたのは、ギルドマスターのレオルドだった。

 彼は、呆然と小箱を見つめていたが、やがて、ハッと目を見開いた。

 彼の全身を、まるで電流のような衝撃が貫いたのだ。


「……ぐっ……!?」


 頭を抱え、その場に膝をつく。

 だが、それは苦痛によるものではなかった。

 彼の魂を、その精神を、何十年もの間、重く、深く縛り付けていた、見えない『枷』が、砕け散る音だった。


「……体が、軽い」


 レオルドの唇から、絞り出すような声が漏れた。

 彼はゆっくりと顔を上げる。

 その瞳に宿っていた、長年の苦悩と諦観の影は、跡形もなく消え去っていた。そこにあるのは、かつて歴戦の英雄と謳われた頃の、鋭い覇気と、揺るぎない意志の光。


「これが、呪いのない……本来の、私か……」


 自分の両の手のひらを見つめ、力強く握りしめる。力が、みなぎってくるのが分かった。

 アークライト家の長として、ギルドマスターとして、そして何より、一人の父親として、果たすべき責任の重さが、本来の輝きを取り戻して、その双肩に宿る。

 レオルドの目から、一筋の涙が静かに流れ落ちた。

 それは、長年の苦しみから解放された安堵の涙であり、そして、道を誤った息子への、悲しみの涙でもあった。


 彼は静かに立ち上がると、リリアに抱えられて眠る俺の前まで歩み寄り、何の躊躇もなく、その場に深く膝をついた。

 そして、この国のギルドを束ねる最高責任者が、一人の洗い物屋に向かって、深く、深く、頭を下げた。


「……ありがとう、アラタ殿。君は、我が一族を……そして、この私を、救ってくれた」


 その声は、もう震えてはいなかった。

 威厳に満ちた、力強い声だった。

 レオルドは、ゆっくりと顔を上げると、その瞳に鋼のような決意を宿して、告げた。


「息子は、私が必ず止めてみせる」


 その宣言は、もはや呪いに歪められた父親の悲痛な願いではなかった。

 アークライト家当主として、ギルドマスターとして、そして、この国の秩序を守る者としての、揺るぎない誓いだった。

 リリアも、セナも、クロエも、そのあまりにも荘厳な光景を前に、ただ言葉を失っていた。

 ただの呪物浄化ではない。

 一族の歴史を、人の魂そのものを『洗い流し』、そして、一人の英雄を、絶望の淵から呼び覚ました。

 自分たちが信じた男の偉業の、その本当のスケールの大きさを、彼女たちは今、改めて思い知らされていた。

 畏敬と、そして、胸の奥から込み上げてくる、熱い何か。

 仲間たちは、眠る俺の顔を、万感の思いを込めて、見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る