第49話 最後の一滴《シミ抜き -概念洗浄-》

――闇の中、声が聞こえた。


『――だから、信じてるわよ!』


 リリアの、どこまでも真っ直ぐな声が、俺の消えかけた魂に火を灯す。


『――あなた様を、信じております!』


 セナさんの、優しくも揺るぎない声が、その炎を暖かな光で包み込む。


『――アラタ、信じてる』


 クロエの、何よりも硬い意志を持った声が、光と炎を守る絶対的な盾となる。


(……ああ、そうか)


 朦朧とする意識の中、俺は理解した。

 精神力なんていう、小手先の燃料は、とっくの昔に枯渇している。

 今、俺の心を燃やしているのは、そんなものじゃない。

 仲間たちが、俺に託してくれた『想い』そのものだ。


(最高の『洗い物』には、最高の『洗い方』を)


 そうだ。

 俺は、この史上最悪にして、史上最高の『汚れ』を前にして、諦めるわけにはいかない。

 彼女たちの信頼に、応えなければならない。

 洗い物屋として。

 皿井アラタとして。


「……うおおおおおおおおっ!!」


 魂の底から、叫びが漏れた。

 俺は、ふらつく足で、しかし確かな意志を持って、再び立ち上がる。

 目の前には、全ての元凶。

 初代アークライト公の『後悔』と『決意』が矛盾したまま凝縮された、絶対的な黒い『染み』。


 これまでの道具じゃダメだ。

 タワシでも、ブラシでも、ヘラでもない。

 この、歴史そのものが凝縮された『概念の染み』を洗い流すには、それ相応の、特別な『洗い方』が必要だ。

 俺は、ゆっくりと右腕を掲げた。

 そして、その人差し指の先端に、残された魂の全てを、仲間たちの想いの全てを、収束させていく。


(見えたぞ、『汚れ』のど真ん中……!)


 これまで培ってきた、【洗い物】の技術の全て。

 頑固な汚れの核だけを、ピンポイントで破壊する、あの感覚。

 俺の右手の指先に、純白の光が、星のように集まっていくのが分かった。

 それは、針の先端よりも鋭く、夜明けの光よりも清浄な、究極の一滴。


 ◇


 現実世界。

 『アークライトの宿痾』が、咆哮を上げた。

 その体から溢れ出した黒い怨念が、リリアたちの連携を弾き飛ばす。


「きゃっ!?」

「くっ……!」


 リリアとセナさんが後方へ吹き飛ばされ、クロエもまた、大盾を構えながらも数歩後ずさった。

 連携が、崩れる。

 怨霊は、もはや邪魔者はいないとばかりに、再びその憎悪の瞳を、工房の奥でぐったりしている俺へと向けた。

 ギギギ……と、その右腕が再び持ち上がり、呪詛の大剣が、俺の頭上へと振り上げられる。


「しまっ……!」

「アラタ様っ!」


 リリアとセナさんの悲鳴が響く。

 もう、誰も間に合わない。

 レオルドさんも、エリアーナも、誰もが息を呑み、最悪の結末を覚悟した。


 その、時だった。

 それまでぐったりと項垂れていた俺の体が、ピクリと動いた。

 そして、ゆっくりと顔を上げ、その右腕の人差し指を、天へと突き上げたのだ。

 その指先には、工房の全ての明かりを吸い込んだかのような、一点の純白の光が宿っていた。


 怨霊の動きが、ぴたりと止まる。

 まるで、自らの存在を根源から消し去る『何か』の気配を、本能で感じ取ったかのように。


 そして、俺は――精神世界の俺は、静かに、しかし確信に満ちた声で、その技の名を告げた。


「これが、俺の、最高の『洗い方』だ――」


 精神世界と、現実世界が、完全にシンクロする。

 俺は、掲げた指先を、呪いの核である黒い『染み』へと、真っ直ぐに振り下ろした。


「《シミ抜き -概念洗浄(スポット・クリーン)-》ッ!!」


 純白の光の針が、黒い染みの中心を、寸分の狂いもなく貫いた。


 ――音が、消えた。


 次の瞬間。

 黒い染みが、内側から眩い光を放ち始めた。

 それは、破壊の光ではなかった。

 浄化。

 何百年もの間、捻じ曲げられ、歪められ、固く結びついていた『後悔』と『決意』が、そのあるべき姿へと還っていく、解放の光だった。


『――友よ、許してくれ』

『――だが、この国を、民を守るためには……!』


 初代アークライト公の悲痛な声が、精神世界に響き渡る。

 だが、その声には、もう呪いのような怨念はこもっていなかった。

 ただ、純粋な悲しみと、そして、王としての覚悟だけが、そこにあった。


 黒が、白に反転していく。

 血と涙で濁っていた川は、どこまでも透き通った清流へと姿を変え、サラサラと穏やかな音を立てて流れ始めた。


 ◇


 現実世界。

 俺が技の名を叫んだのと、同時だった。


「ギ……ギャアアアアアアアアアアアッ!!」


 『アークライトの宿痾』が、この世のものとは思えない、甲高い悲鳴を上げた。

 振り下ろされようとしていた呪詛の大剣が、砂のように崩れ落ちる。

 その漆黒の鎧の全身に、無数の亀裂が走り、その隙間から、浄化の白い光が、滝のように溢れ出してきた。


「な……なによ、これ……!?」


 リリアが、呆然と呟く。

 怨霊は、苦悶に身をよじらせながら、ゆっくりと天を仰いだ。

 その体は、もはや怨念の塊ではなかった。

 ただ、光の粒子となって、キラキラと輝きながら、昇天していく。

 歴代当主たちの苦悶の表情は、安らかな微笑みへと変わり、兜の奥で燃えていた憎悪の炎は、静かに消えていた。


 やがて、最後の光の粒子が天井に吸い込まれるように消え、工房には、嘘のような静寂が戻ってきた。

 後に残されたのは、呆然と立ち尽くす仲間たちと、そして――。


 ――精神世界の崩壊と共に、俺の意識もまた、深い闇の中へと、静かに沈んでいった。

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