第47話 届かぬ刃と、砕けぬ心

時間という概念が、引き伸ばされる。

 漆黒の怨霊――『アークライトの宿痾』が振り下ろした呪詛の大剣が、無防備な俺の首筋へと、スローモーションのように迫る。


「「「アラタ(様)ッ!!」」」


 リリア、セナさん、エリアナさんの悲鳴が、店内に木霊した。

 もう、誰も間に合わない。

 誰もが、最悪の結末を覚悟した、その刹那――。


 ガキンッ!!


 甲高い金属音が響き渡り、火花が散った。

 怨霊の大剣は、俺の首に届く寸前で、巨大な盾によって受け止められていた。

 いつの間に移動したのか。

 クロエが、俺と怨霊の間に滑り込み、その身を挺して一撃を防ぎきっていたのだ。


「クロエっ!」


 リリアが安堵の声を上げるのも束の間、クロエの体が、ぐらりとよろめいた。


「……ぐっ……!」


 物理的な衝撃ではない。

 大盾を通して、クロエの魂そのものが、呪いの直撃を受けたのだ。顔から急速に血の気が引き、その膝が折れそうになる。

 だが、彼女は倒れない。

 奥歯を食いしばり、その両足で、床をがっしりと踏みしめる。


「……アラタは、渡さない」


 絞り出すような声。

 その瞳に宿るは、守護者としての、揺るぎない決意の炎。

 その覚悟に応えるように、リリアが駆け出した。


「よくやったわ、クロエ! ――喰らいなさいッ!」


 紅蓮の炎をまとった剣が、怨霊の胴体を横薙ぎに切り裂く。

 完璧なタイミング、完璧な一撃。

 しかし――


 スッ……。


 リリアの剣は、まるで霧を斬ったかのように、何の手応えもなく怨霊の体を通り抜けた。


「なっ……!?」


 リリアが驚愕に目を見開く。

 怨霊は、その存在を一切揺らがせることなく、ただ静かに佇んでいる。


「物理攻撃が……効かない!?」

「ならば、これで! 《サンライト》!」


 リリアの背後から、セナさんが放った強烈な光の球が怨霊に直撃する。

 聖なる光は、闇を祓うはずの力。

 だが、怨霊の体は光を吸収することも、霧散させることもなく、ただそこに在り続けた。光の球は、怨霊の体を通り抜け、工房の壁に当たって虚しく弾ける。


「そ、そんな……! 物理攻撃だけではなく、魔法さえも……!」


 セナさんの声が、絶望に震えた。

 剣も、魔法も、届かない。

 それは、倒すとか倒せないとか、そういう次元の話ではなかった。

 自分たちの攻撃が、まるで存在しないかのように、完全に無視される。これほど冒険者の心を折る状況はない。

 まさにその時、店の入り口のドアが勢いよく開け放たれた。


「何事だッ! このおぞましい気配は……!?」


 息を切らして駆け込んできたのは、ギルドマスターのレオルドさんだった。

 彼は工房の中の光景――無防備なアラタと、その背後に佇む漆黒の怨霊を視界に捉え、顔色を失った。


「ば、馬鹿な……! 小箱の呪いが、具現化したというのか……!? あれは、我が家に伝わる禁書でしか見たことのない……!」


 レオルドさんが、何かに気づいたようにハッと目を見開く。そして、リリアたちに向かって、絶望を孕んだ声で叫んだ。


「無駄だ! 攻撃はやめろ! そいつに物理的な攻撃は一切通用せんッ!」

「なんですって!?」

「それは、もはや魔物などではない! 我が一族が積み重ねてきた、怨念そのものだ! 物理法則を超越し、この世に『染み』として存在する、呪いの化身なのだよ!」


 レオルドさんの言葉が、最後の一縷の望みすら打ち砕く。

 呪いそのものが、形になった存在。

 そんなものに、どうやって立ち向かえというのか。

 リリアも、セナさんも、一瞬、動きを止めた。その顔に、どうしようもない無力感が浮かぶ。


 ギギ……。

 怨霊が、再びその腕を上げた。

 次こそ、クロエの盾ごと、俺を両断するつもりだ。

 誰もが息を呑む、その静寂の中。

 リリアが、唇の端を吊り上げて、不敵に笑った。


「……そう。あんたは、ただの『染み』なのね」


 彼女は、一度剣を下ろすと、その切っ先を再び怨霊に向け、力強く構え直した。

 その瞳には、先程までの絶望の色は微塵もなかった。

 そこにあるのは、諦めを知らない、不屈の闘志。


「だったら、話は簡単じゃない」


 彼女は、背後で意識を失っている俺に語りかけるように、言った。


「どんなに頑固な『染み』だって、諦めずに擦り続ければ、いつかは必ず落ちるのよ。……あんたが、あたしたちに、そう教えてくれたじゃない」


 その声は、震えていなかった。

 確信に満ちた、力強い声だった。


「効かないなら、効くまでやるだけよ!」


 リリアのその一言が、仲間たちの砕けかけた心を、再び一つに繋ぎ止めた。

 セナさんが杖を握り直し、クロエが盾を構え直す。

 届かぬ刃。通じぬ魔法。

 それでも、彼女たちの心は、まだ折れてはいなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る