第46話 具現化せし『アークライトの宿痾』

ゴオオオオオオッ!!


 突如として、店内に渦巻いていた怨念の黒い霧が、まるで一つの巨大な肺に吸い込まれるかのように、工房の中へと猛烈な勢いで逆流し始めた。


「な、なによ、これ……!?」


 霧の圧力が消え、身動きが取れるようになったリリアが、驚愕の声を上げる。

 それは、嵐の前の静けさなどではなかった。より巨大な、比較にすらならない絶望が、今まさに生まれ落ちようとしている、産声の前の静寂だった。


 工房の扉の前で、刺客と対峙していたクロエも、その異常な気配に一瞬だけ意識を工房へ向けた。

 刺客は、その一瞬の隙を見逃さなかった。


(好機!)


 怨念の顕現が何であれ、まずは目の前の邪魔者を排除する。

 刺客は再び姿を消し、クロエの死角である右側面から、今度こそ仕留めんとクナイを心臓めがけて突き出した。

 だが――


 ガキンッ!!


 クナイは、まるでそこに壁があることを最初から知っていたかのように、クロエの大盾に寸分の狂いもなく阻まれた。クロエは、工房から視線を逸らしてさえいなかった。


「……馬鹿な。なぜ、私の動きが読める……!」


 刺客が、初めて焦りの声を漏らす。

 その問いに、クロエは静かに答えた。


「……アラタを、見てるから」


「なに……?」

「アラタの『仕事』を邪魔するものは、全て、敵。だから、見逃さない」


 彼女の視線は、工房の中のアラタに注がれている。だが、その意識は、アラタを守るという一点において、三百六十度、あらゆる脅威を完璧に捕捉していた。

 それが、彼女の盾役としての、絶対的な領域。


「……怪物め」


 刺客が吐き捨て、距離を取ろうとした、その時。

 工房の中から、おぞましい何かが完全に形を成した気配がした。


「……!」


 刺客が、そしてリリアたちが、息を呑んで工房の中を見つめる。

 霧が完全に晴れた工房の中。ぐったりと項垂れるアラタの背後に、それは立っていた。


 ――禍々しい、漆黒の全身鎧をまとった、巨大な騎士。


 だが、ただの鎧ではない。

 その表面は、まるで液体のように蠢き、時折、苦悶に満ちた歴代当主たちの顔が、無数に浮かび上がっては消えていく。兜の奥で燃える光は、裏切られた親友の、決して消えることのない憎悪の炎そのものだった。

 それは、生命体ではなかった。

 アークライト家が何百年もかけて積み重ねてきた、後悔、憎悪、裏切り、嫉妬……その全ての負の感情が、一つの形を得て、この世に具現化した姿。

 呪いの、化身。


「まさか……! 呪いそのものが、形を……! これこそが、アークライト家が代々受け継いできた『宿痾』……!」


 エリアーナが、青ざめた顔で絶望の声を上げた。

 刺客は、その光景を目の当たりにし、己の任務の重大さを再認識した。


(……報告せねば。カイン様に、この全てを……!)


 彼は、アラタの暗殺を中断し、闇に溶けるようにその場から撤退を開始した。

 クロエは、それを追わなかった。

 なぜなら、今、目の前に、それよりも遥かに危険で、絶対にアラタに近づけてはならない、絶対的な脅威が出現したからだ。


 ギギ……ギ……。

 鎧の騎士――『アークライトの宿痾』が、錆びついた関節を軋ませるように、ゆっくりと首を動かした。

 その憎悪の瞳が捉えているのは、ただ一人。

 全ての元凶たる呪いを、その根源から洗い流そうとしている、無防備な浄化師。


 怨霊は、ゆっくりと右腕を上げた。

 その手には、黒い霧が収束して生まれた、両刃の大剣が握られている。

 それは、物理的な刃ではない。触れた者の魂を、存在ごと断ち切る、呪詛の塊だった。


「やめなさいッ!」


 リリアが叫び、怨霊に向かって突進する。

 だが、その剣が届くよりも早く、怨霊は一歩を踏み出した。

 その一歩は、空間そのものを歪ませ、リリアの目の前から、蜃気楼のように姿を消した。


「え……!?」


 次の瞬間、怨霊は、アラタの真横に、音もなく出現していた。

 仲間たち、刺客、その場の誰一人として、目もくれない。

 その存在理由は、ただ一つ。

 自らを消し去ろうとする異物を、排除すること。


「あ……」

「アラタ様っ!」


 セナとエリアーナの悲鳴が、スローモーションのように響く。

 リリアも、クロエも、今からでは、もう間に合わない。

 『アークライトの宿痾』は、その呪詛の大剣を、無防備に座り込むアラタの首筋めがけて、無慈悲に、そして静かに、振り下ろした。

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