第45話 『染み』の中心、全ての始まりの点

――意識が、途切れる。

 精神力という名の燃料が、完全に底をついた。

 右も左も分からなくなり、ただこの粘着質で陰鬱な精神世界に、俺の自我が溶けて消えていく。


(……やった、か……?)


 朦朧とする意識の中、かろうじてそれだけを思考する。

 初代アークライト公の『裏切り』。罪悪感と自己正当化が絡み合った、史上最悪の油汚れ。

 それを俺は根こそぎ引き剥がした。

 最高の『洗い物』を、やり遂げたんだ。

 もう、いいだろう。

 俺は、安堵と共に、意識を手放そうとした。


 ――だが。

 職人としての本能が、それを許さなかった。


(……まだだ)


 心の奥底で、誰かが囁く。


(まだ、終わっていない。本当の『汚れ』は、まだ、残っている)


 俺は、最後の力を振り絞り、ゆっくりと目を開けた。

 そして、油汚れが剥がされたその下の……川底の、さらに奥を見た。


 そこには、何もなかった。

 ただ、一点。

 まるで、純白の紙の上に落ちた、一滴の墨汁のように。

 全ての光を吸い込み、全ての希望を否定するような、絶対的な『黒』が、静かに存在していた。

 後悔のヘドロも、憎悪のサビも、裏切りの油汚れも、全て、この一点の『黒』から滲み出し、広がったものに過ぎない。

 これが、全ての元凶。

 これが、呪いの『核』。


「……見つけた」


 乾いた唇から、声が漏れた。

 消耗しきったはずの体に、新たな力が、心の底から湧き上がってくる。

 それは、恐怖ではなかった。絶望でもない。

 途方もない『大物』を前にした、職人としての、純粋な歓喜だった。


「全ての汚れの……始まりの点を」


 俺は、ふらつく足で立ち上がった。

 そして、【万物浄化】の目を、その『染み』へと凝らす。

 見えた。

 その黒い染みの正体が、脳内に直接、映像となって流れ込んでくる。


 ――豪華な玉座の間。

 床に倒れ伏す、一人の男。その胸には、一本の剣が深々と突き刺さっている。

 そして、その剣を握っているのは、王冠を戴いた、もう一人の男。

 初代アークライト公。

 彼は、血に濡れた親友の顔を見下ろし、静かに涙を流していた。


『――友よ、許してくれ』


 その唇から漏れたのは、悲痛な呟き。


『――だが、この国を、民を守るためには……こうするしかなかったのだ』


 それと同時に、彼の瞳には、国家をその双肩に背負うという、鋼のような『決意』の光が宿っていた。


 後悔と、決意。

 友への愛と、国家への使命感。

 決して交わることのない、二つの巨大な感情が、矛盾したまま、その瞬間に、一点へと凝縮された。

 それが、この黒い『染み』の正体。

 何百年もの間、アークライト家を蝕み続けてきた、呪いの原点そのものだった。


(……すごい。本当に、すごい……!)


 俺は、笑っていた。

 これほどの『汚れ』を、この手で洗える。

 洗い物屋として、これ以上の幸せがあるだろうか。

 これまでの道具ではダメだ。タワシでも、ブラシでも、ヘラでもない。

 この、概念そのものが結晶化した『染み』を洗い流すには、それ相応の、特別な『洗い方』が必要だ。


(最高の『汚れ』には、最高の『洗い方』を)


 俺は、目を閉じた。

 残された全精神力を、一つのイメージへと収束させていく。

 これまで俺が培ってきた、【洗い物】の技術の全てを。

 頑固な汚れの核だけを、ピンポイントで破壊する、あの感覚。

 俺の右手の指先に、全ての力が集まっていくのが分かった。


「これが、俺の……最高の『シミ抜き』だ」


 俺は、静かに呟いた。

 そして、その指先を、呪いの核である、黒い『染み』へと、ゆっくりと伸ばしていく――。


 ◇


 その頃。現実世界。

 『アクア・リバイブ』の店内は、地獄と化していた。

 工房から溢れ出した怨念の黒い霧が、意思を持つように渦を巻き、リリアたちに襲いかかろうとしている。


「くっ……! 近づけない……!」


 リリアは剣を構えるが、一歩踏み出すことすらできない。

 その絶望的な膠着状態を破ったのは、工房の扉の前で繰り広げられていた、もう一つの戦いだった。


 ガギンッ!


 甲高い金属音と共に、影の刺客が後方へ大きく跳躍した。

 その手には、刃こぼれしたクナイが握られている。

 信じられない、といった表情で、目の前の少女――クロエを見つめていた。


「……馬鹿な。俺の神速の連撃を、全て盾一枚で捌ききっただと……?」


 刺客の呟きに、クロエは答えない。

 ただ、静かに盾を構え直し、その瞳に宿る怒りの炎を、さらに強く燃え上がらせるだけだった。

 彼女の守るべき聖域に、土足で踏み入った不敬者を、絶対に許さない、と。


 だが、その時。

 工房の中から、これまでとは比較にならないほど、おぞましい気配が溢れ出した。

 アラタが、精神世界で、呪いの『核』に触れようとしているのだ。

 その行為が、最後の引き金となった。


 ゴオオオオオオッ!!


 店内に渦巻いていた怨念の黒い霧が、まるで一つの生命体になるかのように、工房の中へと、急速に吸い込まれていく。


「な、なによ、これ……!?」


 リリアが叫ぶ。

 霧が晴れた工房の中、ぐったりと項垂れていたアラタの背後で、黒い何かが、ゆっくりと形を成していく。

 それは、何百年分もの後悔と憎悪をその身にまとった、禍々しい鎧の騎士の姿だった。

 全ての元凶たる呪いが、ついに、現実世界にその牙を剥こうとしていた。

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