第40話 浄化の儀式と、監視の目
「――よし、始めましょうか」
工房に満ちた緊張を破るように、俺は静かに宣言した。
テーブルの上には、俺が『最高の洗剤』と呼んだ三つの素材。そして、その中央には、何百年もの歴史の『染み』をその身に宿した、忌まわしき小箱が鎮座している。
リリアも、セナさんも、クロエさんも、そしてエリアーナさんも、ゴクリと喉を鳴らし、固唾を飲んで俺の次の行動を見守っていた。
「アラタ……本当に、大丈夫なの? なんだか、見てるこっちまで胃がキリキリするんだけど……」
リリアが、不安げな声で尋ねる。彼女の気持ちはよく分かった。これから始まるのは、ただの洗い物じゃない。歴史そのものとの、ガチンコ勝負なのだから。
「大丈夫ですよ」
俺は、彼女たちを安心させるように、にこりと微笑んでみせた。
「最高の素材は揃いました。あとは、俺が最高の腕を振るうだけです」
俺はまず、店の厨房から一番大きな寸胴鍋を持ってきた。それを工房の中央に、ドンと据える。
「す、寸胴鍋……ですの?」
セナさんが、きょとんとした顔で呟いた。
「もっとこう……神秘的な銀の釜とか、そういうのじゃないのね……」
セナさんのツッコミは、もっともだった。だが、俺にとっては使い慣れたこの鍋こそが、最高の仕事道具なのだ。
「いいですか、皆さん。これから、この素材を調合して、三種類の特殊な『洗剤』を作ります」
俺はまず、ごつごつとした『王都で最も古い石畳の欠片』を手に取った。
それを寸胴鍋の中にそっと置くと、両手を鍋にかざし、【万物浄化】の力を静かに注ぎ込んでいく。
「まずは、『研磨剤』から」
俺の脳裏に、王都中央広場で感じた、あの膨大な情報が流れ込んでくる。
人々の喜び、悲しみ、希望、絶望……。何百年ぶんもの歴史の重み。
俺は、その『概念』だけを、石の欠片から丁寧に、丁寧に引き剥がしていく。
やがて、石の欠片はサラサラと砂のように崩れ、鍋の底で鈍い銀色の液体へと姿を変えた。それは、まるで溶けた鉛のように、重く、そしてざらついた質感をしていた。
「す、すごい……ただの石が、液体に……」
リリアが息を呑む。
「次です」
俺は次に、『夜明けの鐘の音が染み込んだ、教会の聖水』を手に取った。
小瓶の蓋を開け、その清らかな液体を、銀色の液体の上にそっと注ぐ。
「『漂白剤』を、合わせます」
今度は、大聖堂で感じた、人々の純粋な祈りの力をイメージする。
病気の治癒を願う祈り。愛する人の無事を願う祈り。
それらの『信仰の純度』を、聖水の中から抽出し、鍋の中の液体に溶け込ませていく。
ジュワッ、と。
鍋の中から、清らかな蒸気が立ち上り、銀色の液体は、純白の、まるでクリームのような液体へと変化した。
「なんて……なんて清浄な力……」
エリアーナさんが、うっとりとした表情で呟く。
「そして、仕上げです」
俺は、最後の素材――『罪人が流した、心からの悔い改めの涙』に見立てた、薬草の雫を手に取った。
その三滴の輝きを、白い液体の中へと、一滴、また一滴と、ゆっくりと垂らしていく。
「頑固な油汚れを分解する、『乳化剤』を」
粘着質な『裏切り』の感情を、根本から分解し、洗い流すための最後の切り札。
三滴の雫が液体に落ちた瞬間、鍋の中がカッと眩い光を放った。
「きゃっ!?」
セナさんたちが、思わず目を覆う。
光が収まった時、寸胴鍋の中には、三つの色が混じり合うことなく、しかし妖しく渦を巻く、不思議な浄化液が完成していた。
歴史の重みを宿した鈍色の層、信仰の純度を秘めた純白の層、そして悔恨の念を溶かし込んだ透明な層。
史上最悪の『複合感情汚染』を洗い流すための、俺だけのオリジナル洗剤だ。
「……ふぅ。これで準備は完了です」
俺は、額の汗を拭った。
調合だけで、とんでもない集中力を使った。だが、心地よい疲労感だった。
「アラタ様、今宵は満月……。魔力が最も満ちる夜ですわ」
窓の外を見ながら、エリアーナさんが言った。
「浄化の儀式を行うには、これ以上ない好機。ですが、同時に、穢れもまた、その力を増す時でもあります。どうか、お気をつけて……」
「はい。分かっています」
俺は、仲間たちに一度頷くと、工房の入り口に手をかざした。
「これから、俺は浄化に全神経を集中させます。何があっても、決して、誰もこの中に入らないでください」
俺の言葉と共に、工房の扉に淡い光の膜――簡易的な結界が張られる。
「アラタ……」
「信じて、待っていてください」
リリアたちの心配そうな視線を背中に受けながら、俺は再び寸胴鍋の前に向き直った。
いよいよ、本番だ。
俺は、禍々しいオーラを放つ小箱を、そっと両手で掴んだ。
そして、三層に分かれた浄化液の、一番上の透明な層に、ゆっくりと、小箱を浸していく。
「――さあ、『洗い物』の時間です」
俺は、静かに呟いた。
「まずは一番外側、こびりついた『後悔』の水垢から、優しく剥がしていきます」
その言葉を合図に、俺は目を閉じた。
意識を、深く、深く、この小さな箱にこびりついた、何百年ぶんもの歴史の『染み』へと、沈めていく――。
◇
その頃。
『アクア・リバイブ』の店の屋根の上。
満月の光が届かない、最も深い影の中に、漆黒の装束をまとった人影が、音もなく溶け込んでいた。
まるで、闇そのものが人の形をとったかのような、不気味な存在。
男は、店の壁に張り付くと、その意識を工房の中へと向けた。
(……始まったか)
男の脳裏に、主の冷徹な声が響く。
『――いいか。決して手を出すな。奴が何をするのか、その一部始終を、一瞬たりとも見逃さず、私に報告しろ。あの汚物が、父上から託された『呪物』を前に、いかなる無様な醜態を晒すのか……この私に、克明に伝えるのだ』
「御意に、カイン様」
影の監視者は、心の中で静かに応えると、工房の中から漏れ出してくる、尋常ならざる魔力の波動に、全神経を集中させた。
(……これは、一体……? ただの浄化の儀式ではない。もっと根源的な、何かを書き換えようとするような、途方もない力が渦巻いている……)
影の男の額に、一筋の冷や汗が伝った。
彼は、カインに仕える数多の密偵の中でも、影働きに特化した手練れ中の手練れ。
だが、今、工房の中で起きている現象は、彼の永い経験をもってしても、到底理解の及ぶものではなかった。
彼は、ただ、目の前で繰り広げられる神の御業を、畏怖と共に見つめることしかできなかった。
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