第41話 精神の洗い場と、後悔のヘドロ

――意識が、沈む。

 温かい液体の中に、ゆっくりと。

 目を開けているのか閉じているのかも分からない、曖昧な感覚。

 全身の力が抜け、ただただ、どこまでも深く、暗い場所へ落ちていく。


(これが……浄化……)


 これまでとは、全く違う。

 聖剣を生み出した時とも、呪われた武具を洗った時とも、あの『死喰らいの茨杖』を浄化した時とも、何もかもが違う。

 まるで、俺自身の魂が、この小さな箱の歴史に溶け込んでいくような、奇妙な一体感。

 そして、ふっと、落下が止まった。


 俺は、ゆっくりと目を開けた。


「……ここは、どこだ?」


 思わず、独り言が漏れた。

 目の前に広がっていたのは、工房ではなかった。

 どんよりと曇った空。血のような錆色と、涙のような塩辛い匂いが混じり合った、淀んだ空気。

 そして、俺の足元を、どす黒く濁った川が、ゆっくりと流れていた。

 見渡す限り続く、薄暗い河原。

 それは、俺が今まで見たどんな場所よりも陰鬱で……そして、なぜか酷く見覚えのある場所だった。


(洗い場……? いや、違う。ここは……)


 俺は、川の流れに視線を落とした。

 水は、水ではなかった。

 それは、人間のあらゆる負の感情を煮詰めたような、粘度の高い液体だった。

 そして、その川底には……。


「うわ……」


 思わず声が出た。

 川底一面に、真っ黒なヘドロが、分厚い層となってこびりついている。

 それは、何百年もの間、一度も掃除されなかった下水管の内側のように、おぞましく、そして絶望的な『汚れ』だった。

 俺は、恐る恐るそのヘドロに意識を集中させる。

 【万物浄化】の目が、その正体を暴き出す。


(これは……『後悔』だ)


 歴代のアークライト家当主たちが、その生涯で積み重ねてきた、無数の後悔。

 『あの時、ああしていれば』

 『なぜ、あんな決断を』

 『許してくれ、我が友よ』

 声にならない声が、怨嗟の囁きが、ヘドロの中から無数に響いてくる。

 これが、俺が最初に言った『水垢』の正体。何百年ぶんもの後悔が堆積し、ヘドロと化した、呪いの第一層だ。


(……すごい。本当に、すごい『汚れ』だ)


 恐怖は、なかった。

 あるのは、途方もない大物を前にした、職人としての歓喜だけ。

 俺は、ニヤリと口角を上げた。


「やってやる……。あんたたち全員、根こそぎ洗い流してやる……!」


 俺は、強く念じた。

 この世界が、俺の意識が作り出した精神世界だというなら、道具だって、俺の意志で作れるはずだ。

 イメージするのは、最強の洗浄道具。

 俺の右手に、ずしりとした重みが宿る。

 現れたのは、硬い毛先が無数に並んだ、業務用のタワシだった。

 しかも、ただのタワシじゃない。後悔という名の酸性の汚れを中和するための、強力な『アルカリ性』の性質を帯びた、精神力のタワシだ。


「よし……!」


 俺は川の中に足を踏み入れると、腰を落とし、川底のヘドロにタワシを押し付けた。


 ゴシッ!


 鈍い手応え。

 だが、その瞬間、俺の脳内に、凄まじい濁流が流れ込んできた。


『――なぜだ! なぜ私は、あの時、弟を信じてやれなかったのだ!』

『――我が判断が、多くの民を死なせた……! この罪は、決して……!』

『――すまない……すまない……!』


 歴代当主たちの、生々しい後悔の念。

 それが、映像と音声となって、俺の精神を直接殴りつけてくる。


「ぐっ……!」


 頭が割れるように痛い。

 だが、俺は手を止めなかった。

 これは、俺の仕事だ。俺の『洗い物』だ。

 他人の感傷に付き合っている暇はない。


「うるさいッ!」


 俺は、叫んだ。

「あんたたちの後悔なんざ、知ったことか! 俺はただ、この汚ねぇヘドロを、洗い流しに来ただけだ!」


 ゴシゴシゴシゴシッ!

 無心で、タワシを動かす。

 流れ込んでくる後悔の念を、全て無視する。

 ただひたすらに、目の前の『汚れ』だけを見つめて、腕を動かし続ける。

 どれくらいの時間が経ったのか。

 俺の精神は、確実に削られていく。だが、それと同時に、分厚かったヘドロの層が、少しずつ、しかし確実に、削り取られていくのが分かった。


 ◇


「……アラタ様……」


 工房の外で、セナが祈るように、結界の張られた扉を見つめていた。

 リリアも、クロエも、エリアーナも、固唾を飲んで中の様子を窺っている。

 満月の光が差し込む工房の中、寸胴鍋の前に座り込んだままのアラタは、ピクリとも動かない。

 ただ、その額からは、まるで滝のような汗が流れ落ち、閉じられた瞼は小刻みに震え、時折、苦悶に満ちた呻き声が漏れていた。


「……大丈夫なのかしら、あいつ。見てるこっちが、心臓に悪いわよ……」

 リリアが、不安げに呟く。

「……アラタを、信じる」

 クロエが、短く、しかし力強く言った。


 その時、エリアーナが、畏怖に満ちた声で口を開いた。

「アラタ様は今、物質の世界ではございません。呪いの根源たる……『概念』そのものが渦巻く、精神の世界で戦っておられるのです」

「精神の……世界?」

 リリアが、怪訝な顔で聞き返す。


「はい。あの小箱に宿るは、何百年ぶんもの歴史と感情の堆積。それを洗い流すということは、歴史そのものに介入するに等しい、神の御業……。その負荷は、常人の魂であれば、触れた瞬間に砕け散ってしまうほどのものでしょう」


 エリアーナの言葉に、三人は息を呑んだ。

 自分たちが想像していた浄化とは、まるで次元が違う。

 今、あの工房の中で、アラタはたった一人、何百年ぶんもの歴史の重みと、たった一人で戦っているのだ。


「……あたしたちに、できることはないの?」

 リリアの切実な問いに、エリアーナは静かに首を横に振った。

「ございません。あの戦いは、アラタ様にしか挑むことのできない、孤高の領域。わたくしたちにできるのは……ただ、信じて、待つことだけでございます」


「…………」


 重い沈黙が、彼女たちを包む。

 リリアは、強く拳を握りしめた。


「……分かったわよ。だったら、信じるだけよ。あいつの『洗い物』の腕は、本物なんだから」


 その言葉に、セナとクロエも、力強く頷いた。

 彼女たちの揺るぎない信頼が、見えざる力となって、工房の中のアラタの背中を、そっと支えているかのように見えた。


 ◇


 ――ゴリッ!


 不意に、タワシの先に、硬い感触が伝わった。

 俺は、ハッと顔を上げる。


「……終わった、か?」


 見れば、あれほど分厚くこびりついていた黒いヘドロが、すっかり洗い流されている。

 どす黒く濁っていた川の水も、わずかだが透明度を取り戻し、川底が見えるようになっていた。


「はぁ……はぁ……」


 凄まじい疲労感。全身の精神力が、ごっそりと持っていかれたようだ。

 だが、やり遂げた。

 俺は、安堵のため息をつき、その場にへたり込もうとして――


 ――その、川底を見た瞬間、凍りついた。


「な……んだ、よ、これ……」


 ヘドロの下から現れたのは、綺麗な川底ではなかった。

 そこに広がっていたのは、まるで血管のように川底を覆い尽くす、おびただしい量の、赤黒い『サビ』だった。

 それは、後悔のヘドロなど比較にならないほど、禍々しく、そして攻撃的なオーラを放っている。


『許さない』

『決して、許さない』

『我が一族の血の恨み、未来永劫、貴様らを蝕み続けてくれるわ……!』


 憎悪。

 純度100%の、呪詛と怨念。

 それが、サビとなって、この呪いの第二層を形成しているのだ。


「まだ……まだ、終わりじゃなかったのかよ……!」


 俺は、絶望と、そして新たな『汚れ』を前にした歓喜の入り混じった表情で、赤黒く染まった川底を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。

 本当の『大掃除』は、まだ始まったばかりだった。

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