第39話 史上最悪の『複合感情汚染』

王都巡りから戻った俺たちは、工房のテーブルを囲んでいた。

 中央には、元凶であるアークライト家の小箱。その周りには、俺が『最高の洗剤』と呼んだ、石の欠片、聖水、そして薬草の雫が、静かに置かれている。


「……で、これからどうするのよ、アラタ。こんなオカルトグッズみたいなもので、本当にあの呪いを……」

 リリアが、不安と期待が半々といった顔で俺に尋ねる。

 セナさんも、クロエさんも、エリアーナさんも、固唾を飲んで俺の次の行動を見守っていた。


「はい。いよいよ、本番です」


 俺は頷くと、椅子から立ち上がり、テーブルの上に置かれた小箱を、そっと両手で持ち上げた。

 ずしり、と。

 手のひらに伝わる、何百年ぶんもの歴史の重み。

 俺は目を閉じ、全ての意識を、この小さな箱に注ぎ込んだ。


(すごい……。やっぱり、すごい……)


 俺の【万物浄化】の目が、その『汚れ』の内部構造を、分子レベルで解析していく。

 街を巡って『概念』という名の洗剤を手に入れた今なら、以前よりもさらに深く、鮮明に、この汚れの本質が見える。

 それは、単一の呪いなどという、単純なものではなかった。

 まるで、地層のように、幾重にも、幾重にも、異なる性質の汚れが塗り重ねられている。


「…………」


 俺が黙り込んだまま小箱を凝視しているので、仲間たちが心配そうに顔を覗き込んでくる。

「アラタ様……?」


 俺は、ゆっくりと目を開けると、一度大きく息を吸い込み、そして、分析結果を告げた。


「これは……油汚れと、水垢と、サビと、カビ……。これら全てが、何百年という時間をかけて、ミルフィーユのように重なり合った、史上最悪の『複合感情汚染』です」


「…………は?」


 リリアの口から、間の抜けた声が漏れた。

 セナさんも、クロエさんも、きょとんとした顔で固まっている。

 そりゃそうだろう。国家の存亡に関わる呪物の正体が、キッチンのシンクみたいな単語で説明されたのだから。


「ちょ、ちょっと待ちなさいよ、アラタ! 油汚れ!? 水垢!? あんた、こんなシリアスな時に、何の冗談よ!」

 リリアが、俺の肩を掴んでガクガクと揺さぶる。


「冗談じゃありません。大真面目です」

 俺は、彼女の手をそっと外すと、小箱を指さしながら、解説を続けた。


「まず、一番外側の層。これは、歴代当主たちが積み重ねてきた『後悔』の念です。これは、拭いても拭いても浮き出てくる、しつこい『水垢』と同じ性質を持っています」


「み、水垢……」

 リリアが、こめかみを押さえている。


「その下には、始祖を裏切った親友一族の『憎悪』が、赤黒い『サビ』となって、こびりついています。金属を内側から蝕み、ボロボロにしていく、最も攻撃的な汚れです」


「サビ……ですの……」

 セナさんの声が、震えていた。


「さらにその奥。アークライト家の栄光に対する、外部からの『嫉妬』や『羨望』。これらは、日陰でじっとりと繁殖する『カビ』のような、陰湿な汚れとして根を張っています」


「……カビ」

 クロエさんが、ボソリと呟いた。その顔は、完全に理解不能といった表情だ。


「そして、その全てを繋ぎ止め、呪いの核となっているのが……全ての元凶、始祖自身の『裏切り』の感情です。これは、最も洗い流しにくい、粘着質の『油汚れ』として、中心部にベットリと絡みついているんです」


 俺の、あまりにも生活感に満ち溢れた解説に、工房は奇妙な沈黙に包まれた。

 リリアとセナさんは、もうツッコむ気力も失せたのか、ただただ呆然と俺を見ている。

 シリアスな呪物浄化の話が、いつの間にか年末の大掃除の打ち合わせみたいになっているのだから、無理もない。


 だが、一人だけ、エリアーナさんの反応は違った。

 彼女は、青ざめた顔で、ゴクリと喉を鳴らした。その瞳には、俺に対する畏怖の色が、ますます濃くなっている。


(このお方は……なんてことを……)


 エリアーナには、分かっていた。

 アラタの言葉は、ただの比喩ではない。

 『油汚れ』――それは、一度つけば決して離れず、真実を覆い隠す、粘着質な罪悪感。

 『水垢』――それは、心の表面に染みつき、輝きを曇らせる、消えることのない後悔。

 『サビ』――それは、魂そのものを内側から蝕み、朽ちさせていく、呪詛の怨念。

 彼は、形のない『感情』という汚れの本質を、物理的な汚れの性質と完全に同一のものとして、完璧に見抜いているのだ。


(まるで、世界の法則そのものを覗き込んでいるかのよう……。こんな芸当、神話の中の神々ですら……)


 俺は、そんなエリアーナさんの戦慄には全く気づかず、職人としての興奮に、体の芯から打ち震えていた。


(すごい……。本当にすごい……!)


 建国の歴史。血と裏切り。何百年ぶんもの憎悪と後悔と嫉妬。

 これほどまでに複雑で、洗い甲斐のある『大物』は、生まれて初めてだ。

 神々の食器を洗った時とは、また違う興奮。あの時は『神聖さ』への挑戦だったが、今回は『歴史』そのものへの挑戦だ。


 俺の目に、爛々とした光が宿る。

 それは、途方もない獲物を前にした、狩人の目。

 あるいは、前人未到の高峰に挑む、登山家の目。

 いや――最高の『汚れ』を前にした、ただの洗い物屋の、歓喜の目だった。


「だから、これを洗い上げるには、ただ一つの方法ではダメなんです」

 俺は、テーブルの上に並べた三つの素材を、順番に指さした。


「歴史の重みが詰まった『研磨剤』で、まず表面の後悔を削り落とす」

「信仰の純度を凝縮した『漂白剤』で、憎悪のサビを溶かし、カビを殺菌する」

「そして、悔恨の念から生まれた『乳化剤』で、中心にある裏切りの油汚れを、根本から分解して洗い流す」


 俺は、仲間たちに向き直り、ニヤリと笑ってみせた。

 それは、これからの途方もない作業への、自信と喜びに満ちた笑みだった。


「それぞれの汚れの層に合わせた、特殊な『洗剤』を調合し、順番に使っていく。そうしなければ、この史上最悪の『複合感情汚染』を、完璧に洗い上げることはできません」


 俺の言葉に、ようやく仲間たちも、俺がふざけているわけではないことを理解したようだった。

 リリアが、呆れたように、しかしどこか誇らしげにため息をつく。


「はぁ……もう、あんたの言うことは、いちいちスケールが大きすぎて、あたしの頭じゃ追いつかないわよ」

「そうですわ、アラタ様。ですが……その眼差しを見れば、分かります。あなた様には、確信があるのですね」


 セナさんが、うっとりとした眼差しで俺を見つめる。

 俺は、力強く頷いた。


「はい。見ていてください」


 俺は、再び小箱を手に取ると、まるで愛しい我が子をあやすかのように、その表面を優しくなぞった。


「俺が、あんたにこびりついた、何百年ぶんもの頑固な『染み』を……一点の曇りもなく、完璧に洗い上げてやりますから」


 その言葉を合図に、工房の空気が変わった。

 これから始まるのは、ただの浄化ではない。

 歴史そのものを洗い流すという、前代未聞の『大掃除』。

 その裏で、俺の力を巡るカインの陰謀が、着々と俺たちを追い詰めようとしていることなど、この時の俺はまだ、知る由もなかった。

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