第21話 汚れの本質は「飢えと渇き」

「き、貴様ァ……!」


 屈辱に顔を歪ませたカインが何かを叫び終える前に、俺は静かに店の扉を閉めた。

 彼の怒声も、野次馬たちの好奇に満ちた囁き声も、厚い扉一枚で別世界のものになる。


「ふぅ……」


 店内に満ちる緊張の糸が、ぷつりと切れた。


「な、なんなのよアイツ! 人の店の前で、好き勝手言ってくれちゃって!」

 リリアが、怒りで肩を震わせながら床を蹴る。

「許せませんわ……! アラタ様をあれほど侮辱するなんて……!」

 セナさんも、悔しそうに唇を噛み締めていた。

「……カイン、次は私が、盾で殴る」

 クロエさんの瞳にも、静かな怒りの炎が宿っている。


 三人が、俺のために本気で怒ってくれている。

 その事実が、凍てついた俺の心をじんわりと温めてくれた。

 実家では、俺が罵倒されるのは当たり前だった。誰も庇ってなんてくれなかった。

 だから、今のこの状況が、少しだけくすぐったい。


「……ありがとうございます。でも、大丈夫です」


 俺は三人に微笑みかけると、くるりと踵を返し、店の奥にある工房へと向かった。

 カインの言葉も、野次馬の視線も、もはやどうでもいい。

 俺の頭の中は、ただ一つのことでいっぱいだったからだ。


(早く、あの子と向き合いたい)


 扉を開けると、そこは俺だけの聖域。

 作業台の上で、一本の杖が静かに横たわっている。

 『死喰らいの茨杖』。

 昨日よりも、その禍々しいオーラは濃度を増しているように感じられた。まるで、外の騒ぎを嘲笑うかのように。


 俺は椅子に腰かけると、杖と一対一で向き合った。


(すごい……。やっぱり、これは今までとは全く違う)


 目を閉じ、意識を集中させる。

 【万物浄化】のスキルを通して、俺は『汚れ』の本質を視る。

 リリアのガントレットにこびりついていたのは、ドス黒く燃え盛る『悪意』の汚れだった。

 セナさんのサークレットを蝕んでいたのは、冷たく粘着質な『恐怖』の汚れ。

 そして、クロエさんの盾を捻じ曲げていたのは、自己を否定する『矛盾』の汚れ。


 だが、この杖から感じるものは、そのどれとも異なっていた。

 色がない。匂いもない。形すらない。

 そこにあるのは、ただ、圧倒的なまでの『空虚』。

 全てを飲み込もうとする、ブラックホールのような……。


(これは……憎しみや呪いじゃない。悪意ですらない。ただ、ひたすらに……何かが足りていないんだ)


 俺は昨日、この杖に指先を触れた瞬間の、あの感覚を思い出した。

 ズッ、と生命力を吸い上げられた、あの感触。

 あれは、ナイフで刺されるような攻撃的なものではなかった。

 もっと、こう……乾ききった砂漠が、一滴の水を求めるような。

 飢えた赤子が、母親の乳を求めるような。

 根源的で、抗いがたい、純粋な『渇望』。


(そうだ……。この子は、ただ……)


 俺の口から、無意識のうちに言葉がこぼれ落ちていた。


「……お腹が、空いてるんだ」


「え……?」


 その声に、心配して工房の入り口から様子を窺っていたリリアが、間の抜けた声を上げた。セナさんとクロエさんも、きょとんとした顔で俺を見ている。


「お腹が空いてるって……アラタ、あんた何言って……」

「この杖は、呪われているんじゃありません」


 俺は、三人の顔を真っ直ぐに見つめて、はっきりと告げた。

「中にいる『誰か』が……きっと、何百年、何千年も……ずっと何も食べられずに、何も飲めずに、ただひたすら飢えて、渇いて、苦しんでいるだけなんです」


 生命力を吸うのは、悪意からじゃない。

 ただ、生きるために、必死に『栄養』を求めているだけ。

 その結果、触れた者の命を奪ってしまっているに過ぎない。

 それは、あまりに悲しく、孤独な『汚れ』の形だった。


「…………」


 俺の突飛な説明に、三人は言葉を失っている。

 無理もない。普通の冒険者なら、呪いは祓うもの、破壊するものとしか考えないだろう。

 だが、俺は違う。


(汚れは、落とすものだ。そして、腹を空かせた子には、飯を食わせてやるのが道理だろ)


 俺の中で、やるべきことが、明確に定まった。


「じゃ、じゃあ、どうするっていうのよ!?」

 ようやく我に返ったリリアが、困惑した様子で尋ねてくる。


 俺は、ニィッと口角を上げた。

 それは、最高の『洗い物』を前にした、職人の笑みだった。


「決まってます。食事をさせてあげるんです。最高のフルコースをね」

「フルコース!?」


 俺は立ち上がると、工房の棚から一番大きな桶を取り出した。

「ただ洗うだけじゃダメです。こびりついた『空腹』という汚れは、中途半端なエネルギーじゃ、逆に全部吸われて終わりだ」

「だから、まずこの子の乾ききった喉を、潤してあげないといけない」


 俺は、桶をドン、と作業台に置いた。

「でも、普通の水じゃダメだ。水道水で、神々の渇きが癒せるわけがない」


 俺の脳裏に、必要な素材のイメージが、はっきりと浮かび上がっていた。

 ただの水ではない。

 もっと純粋で、清浄で、そして何より、膨大な魔力を内包した『聖水』でなければならない。

 そして、その聖水を作り出すための、最高の『器』。


「リリアさん」


 俺は、真剣な眼差しで彼女に向き直った。


「この街の近くに、魔力を豊富に含んだ、特殊な鉱石が採れる場所ってありますか? できれば……月の光を浴びて、その力を蓄えるような、そんな石が」

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