第19話 最後の依頼人と、死を招く杖

「……分かりました。その『汚れ』、俺が洗い流してみせます」


 静まり返った店内に、俺の静かな、しかし確固たる決意を込めた声が響いた。

 目の前では、フードを脱いだエルフの女性――その人間離れした美貌は、もはや芸術品の域だった――が、翠色の瞳を潤ませながら、深々と膝をついている。


「あ……あなた様は……受け入れて、くださるのですか……?」


 彼女の声は、か細く震えていた。長きにわたる絶望の果てに、ようやく見つけた一縷の光に、すがりつくような声だった。


(当たり前じゃないか……)


 俺の視線は、彼女の顔ではなく、彼女が差し出した一本の杖に釘付けになっていた。

 黒くねじくれた茨が、まるで生きた蛇のように絡みついた、禍々しい杖。

 そこから放たれるオーラは、これまで俺が浄化してきたどんな呪物とも次元が違う。悪意や怨念といった、分かりやすい感情ではない。もっと根源的で、純粋な……そう、まるでブラックホールのような『渇望』。生命そのものを否定し、無へと引きずり込もうとする、絶対的な『汚れ』。


 これほどの『汚れ』を前にして、断るなんて選択肢が、俺にあるはずがなかった。


「待ちなさい、アラタ!」


 俺が杖を受け取ろうと手を伸ばした瞬間、リリアの鋭い声が飛んだ。

 彼女は俺とエルフの女性の間に割って入ると、警戒心を最大限に高めた表情で杖を睨みつけていた。


「そいつはヤバすぎるわ! 見ただけで全身の肌が粟立つ……! あんた、そんなものを浄化しようものなら、本当に死ぬわよ!」

「リリアの言う通りですわ、アラタ様!」

 セナさんも、青ざめた顔で俺の袖を掴む。

「あの杖からは、命の暖かさが一切感じられません……! あれは、死そのものです!」


 いつもは無口なクロエさんまでもが、俺の前に立ち、まるで盾になるかのように両腕を広げていた。

「……ダメ。アラタに、触らせない」


 三人の必死の制止。

 俺の身を本気で案じてくれているのが、痛いほど伝わってくる。

 その温かい心遣いが、胸に染みた。


 だが、それでも俺は引けなかった。


「大丈夫です。俺には、分かりますから」

 俺は三人を安心させるように、ゆっくりと微笑んでみせた。


「この杖は、ただの呪われた道具じゃない。これは……助けを求めてるんです」


「助けを……?」

 リリアが、訝しげに眉をひそめる。


 俺の言葉に応じるように、膝をついていたエルフの女性が、顔を上げた。

「……私の名は、エリアーナと申します。あなた様のおっしゃる通りです。この杖は……かつては『母なる大樹』の枝より作られ、生命を育む奇跡の杖でした。ですが……」


 エリアーナは、辛そうに言葉を区切ると、憎悪と悲しみの入り混じった目で、杖を見つめた。

「ある時から、その力は真逆の力に反転してしまったのです。触れた者の生命力を、根こそぎ吸い尽くす『死喰らいの茨杖』へと……。これまで、何人もの高名な浄化師や聖職者の方々が、この杖の浄化に挑み……そして、皆、命を落としました」


 その告白に、リリアたちが息をのむ。

 専門家ですら命を落とす、正真正銘の死の呪物。

 彼女たちの心配は、杞憂などではなかったのだ。


「だからこそ、です」

 俺は、はっきりとした口調で言った。


「そんなの間違ってる。生命を育むはずの杖が、命を奪うなんて。道具が、本来の役割を放棄して、持ち主を苦しめている。それは、俺が最も許せない、『醜い汚れ』なんです」


 クロエさんの盾がそうだったように。

 道具は、その役目を果たすために存在する。その本質が捻じ曲げられ、悲鳴を上げているのなら、それを元の美しい姿に戻してあげるのが、俺の――【洗い物】を極めた者の、使命だった。


「聞こえませんか? この杖、泣いてるんですよ」


 俺の言葉に、全員が戸惑った顔で杖を見る。

 もちろん、物理的な音が聞こえるわけじゃない。

 だが、俺には確かに感じ取れる。この杖の核から発せられる、悲痛な叫びが。


「だから、俺が洗ってあげないと。この子の涙を、拭ってあげないと」


 俺の真剣な眼差しに、リリアもセナさんも、そしてクロエさんも、もはや何も言えなくなっていた。

 俺が一度こうと決めたら、絶対にテコでも動かないことを、彼女たちはもう理解してくれているのだろう。

 リリアは、深いため息をつくと、俺の肩をポンと叩いた。


「……分かったわよ。もう、あんたのその職人バカっぷりには、付き合ってあげる。でも、絶対に無茶はしないで! 少しでも危ないと思ったら、すぐに手を引くこと! いいわね!」

「はい、ありがとうございます」


 俺は、エリアーナさんに向き直ると、改めて言った。

「依頼、正式にお受けします。この杖、お預かりしますね」

「あ……はいっ……! お願い、いたします……!」


 エリアーナさんは、震える手で、その禍々しい杖を俺に差し出した。

 俺は、慎重に、まるで薄氷に触れるかのように、その杖を布ごしに受け取る。

 ズシリとした重み。

 だがそれは物理的な重さだけではない。いくつもの命を吸い上げてきた、業の重さだった。


「今日はもう遅いですから、作業は明日にします。また、明日お越しください」

「は、はい! 何から何まで、本当に……ありがとうございます……!」


 エリアーナさんは、何度も何度も深々と頭を下げると、名残惜しそうに店を後にした。


 ◇


 その日の営業を終え、店の扉に『閉店』の札をかける。

 長かった一日が、ようやく終わった。


「ふぅ……疲れた……」


 カウンターでぐったりしているリリアたちを横目に、俺は一人、工房へと向かった。

 そして、作業台の上に、預かった『死喰らいの茨杖』をそっと置く。


 改めて、杖と一対一で向き合う。

 工房の静寂の中で、杖から放たれる不吉なオーラは、より一層その濃度を増しているように感じられた。

 黒い茨が、まるで呼吸をするかのように、微かに蠢いている。


(こいつは……今までのやり方じゃ通用しない)


 直感が告げていた。

 リリアたちの装備を浄化した時のように、ただ浄化エネルギーを流し込むだけでは、逆にこちらのエネルギーが全て吸い尽くされて終わるだろう。

 もっと、根本的なアプローチが必要だ。この『汚れ』の本質を見極めないと……。


 俺は、意を決して、杖を覆う布を取り払った。

 そして、その黒い茨に、ゆっくりと指先を近づけていく。


「アラタ!」


 心配して見に来てくれたリリアが、息をのむ。

 俺は彼女を手で制し、さらに指を近づけた。


 あと数ミリで、指が茨に触れる。

 その瞬間だった。


 ズッ……!


 まるで、指先から血を吸われるような、明確な感覚。

 俺の生命力が、微かだが、確かに杖へと流れ込んでいくのが分かった。


(……!)


 常人なら、この時点で絶叫し、手を引いただろう。

 リリアも、今にも飛びかかってきそうな気配を漂わせている。


 だが、俺の口元に浮かんだのは、恐怖ではなかった。

 ニィ……と。

 自分でも気づかないうちに、俺は不敵な笑みを浮かべていた。


(すごい……。これは、本当に……)


 俺はゆっくりと手を引くと、恍惚とした表情で、自らの指先を見つめた。


「洗い甲斐が、あるじゃないか……!」


 史上最悪の『汚れ』を前に、俺の職人魂は、かつてないほど激しく燃え上がっていた。

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