第18話 開店、長蛇の列と最後の希望
店の名は『アクア・リバイブ』。
俺の、俺だけの城。昨日まで呪われた廃墟だったとは思えないほど、白亜の壁は朝日を浴びてキラキラと輝いている。
(うぅ……落ち着かない……。俺が、お店の主人……? 無理無理無理、どう考えても役不足すぎる……!)
開店前の静かな店内で、俺は一人、カウンターの下にしゃがみ込んで頭を抱えていた。
リリアたちが開店準備のために忙しなく動き回っている。そんな中、俺だけが完全に役立たずだった。
「こら、アラタ! いつまでそこでキノコみたいになってるのよ! もうすぐ開店時間なんだから、シャキッとしなさい!」
リリアが呆れたように俺の背中をバシッと叩く。
「だ、だって、お客さんが来たら、俺、ちゃんと喋れるかどうか……」
「大丈夫ですわ、アラタ様」
セナさんが、淹れたてのハーブティーをそっと俺の前に置いてくれる。その香りに、少しだけ強張っていた心がほぐれていく。
「受付やお客様の対応は、私たちにお任せください。アラタ様は、工房で浄化に集中してくださればよいのです」
「……アラタの場所は、私たちが守る」
クロエさんも、店の入り口に仁王立ちしながら、力強く頷いてくれた。
三人の頼もしい言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
俺はもう、一人じゃないんだ。
「……ありがとうございます。が、頑張ります」
俺がようやく立ち上がった、その時だった。
店の外から、鐘の音が鳴り響く。街の時計台が、朝の九時を告げていた。
開店の時間だ。
「よし、開けるわよ!」
リリアが意気揚々と店のドアを開け放った、その瞬間。
俺たちは、目の前の光景に絶句した。
「「「…………え?」」」
店の前には、昨日ギルドで見た光景など比較にならないほどの、おびただしい数の人々が、通りの向こうまで続く長蛇の列をなしていたのだ。
屈強な冒険者、高価なローブをまとった魔術師、裕福そうな商人、果ては貴族の紋章をつけた騎士まで……。その誰もが、呪いや汚れにまみれた武具を手に、期待と熱狂の入り混じった目で、こちらを食い入るように見つめている。
「ひぃぃぃぃぃ!?」
俺は悲鳴を上げ、再びカウンターの下に逃げ込もうとした。
だが、今度はリリアにがっしりと首根っこを掴まれて阻止される。
「逃がさないわよ! さあ、やるわよみんな! 『アクア・リバイブ』、開店よ!」
その日、俺の店は戦場と化した。
◇
「次の方どうぞー!」
「依頼品はこちらのカウンターへ! 浄化の終わった品はあちらでお渡しします!」
リリアとセナさんが、見事な連携で客を捌いていく。クロエさんはその巨躯と大盾で、割り込もうとする不届き者を黙らせていた。
そして俺はというと……。
(汚れてる汚れてる汚れてる……! 洗っても洗っても終わらない……! なんて幸せなんだ……!)
店の奥に用意してもらった俺専用の工房で、無我夢中で浄化作業に没頭していた。
持ち込まれるのは、怨念がこびりついた呪いの剣、粘着質なスライムの体液で腐食した鎧、効果が反転した魔法の薬など、多種多様な『汚れ』たち。
それらを、俺は次から次へと洗い清めていく。
【万物浄化】のエネルギーを最適化し、時には《一点集中洗い》で呪いの核を抜き、時には《浸け置き洗い》で頑固な汚れを浮かせる。
もはやそれは、俺にとって呼吸をするのと同じくらい自然な行為だった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
太陽が西に傾き始め、あれほど長く続いていた行列も、ようやく最後の一人を迎えていた。
「ふぅ……これで今日は終わりかしら……」
さすがのリリアも、疲れ果てた様子でカウンターに突っ伏している。
その最後の一人だった。
フードを目深にかぶった、小柄な人影。性別すら判然としないが、どこかこの場の喧騒とは不釣り合いな、凛とした静けさをまとっている。
「いらっしゃい。本日の受付は終了……」
リリアが言いかけた言葉は、途中で途切れた。
その人物が、ゆっくりとフードの中から一つの包みを差し出したからだ。
ぼろぼろの布に包まれているにもかかわらず、その内側から漏れ出す禍々しいオーラは、これまで俺が浄化してきたどんな呪物とも比較にならないほど、濃密で、そして邪悪だった。
「これを……浄化して、いただけますか」
鈴が鳴るような、透き通った女性の声だった。
俺は、工房からその様子を窺い、ゴクリと喉を鳴らした。
なんだ、あれは。
布越しにでも分かる。あれは、ただの呪いじゃない。もっと根源的で、生命そのものを否定するような、絶対的な『穢れ』だ。
◇
その頃、街の一角にあるアークライト家の壮麗な屋敷では、密やかな会合が開かれていた。
主催者は、カイン・フォン・アークライト。
彼の前には、この街の有力貴族たちが顔を揃えていた。
「――皆さんもお聞き及びでしょう。街に現れた、謎の浄化師のことを」
カインは、完璧な笑みを浮かべながら、しかしその瞳の奥にどす黒い憎悪を宿して語りかける。
「彼の力は、確かに本物かもしれません。ですが、考えてもみてください。一個人が、国家レベルの戦略物資である呪われた武具を、意のままに浄化できてしまう。これは、我が国の軍事バランスを根底から揺るがしかねない、極めて危険な事態です」
貴族たちが、ざわめき始める。
「その力は、あまりに強大で、野放しにしておくには危険すぎる。よって私は提案したい! この国の威信にかけ、新たに『王立浄化ギルド』を設立し、浄化の力を我々国家が管理・統制すべきであると!」
彼の真の狙いは、アラタの力を合法的に奪い、自らの支配下に置くこと。
そして、二度と自分に逆らえないように、その尊厳を踏みにじることだった。
度重なる屈辱で後がなくなった彼は、貴族としての権力という、最も卑劣な手段で俺を潰しにかかっていたのだ。
◇
「……お客様、これは……」
リリアが、警戒を露わにして問いかける。
フードの女性は、静かに包みを解いた。
現れたのは、黒くねじくれた茨に蛇のように覆われた一本の古い杖だった。茨はまるで生きているかのように、時折微かに蠢いている。
「我が一族に、古くから伝わるものです。ですが、ある時から、このような姿に……」
俺は、工房から出て、その杖の前に立っていた。
吸い寄せられたのだ。
この、人生で出会った中で、最も醜く、最も洗い甲斐のある『汚れ』に。
恐怖は、なかった。
あるのはただ、最高の獲物を前にした、職人の歓喜だけだった。
「どうか、お願いします」
女性はそう言うと、自らフードを脱いだ。
現れたのは、長く尖った耳、白磁のような肌、そして月光を溶かし込んだかのような銀色の髪を持つ、人間離れした美貌の持ち主――エルフだった。
彼女の大きな翠色の瞳には、涙が浮かんでいる。
「これを浄化してください。これは、滅びゆく我が一族にとって……その最後の希望なのです」
悲痛な願いと共に、彼女は俺の前に、深々と膝をついた。
俺は、目の前の杖と、涙に濡れるエルフの顔を交互に見つめる。
そして、静かに、しかし確かな決意を込めて、こう答えた。
「……分かりました。その『汚れ』、俺が洗い流してみせます」
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