第17話 呪われた廃墟と、浄化師の凱歌

「すごい……」


 俺の口から、無意識に漏れたかすれた声。

 それは、恐怖でも絶望でもなく、純粋な歓喜の響きを帯びていた。


「すごい……『汚れ』だ……」


「は……?」


 俺の反応が理解できない、という顔でカインが眉をひそめる。

 リリアやセナさんも、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。


「ア、アラタ……? 大丈夫? 顔色が悪いっていうか……その、すごく嬉しそうに見えるんだけど……」

「まさか、呪いの影響で精神に異常を……!?」


 違う。違うんだ。

 俺の精神は、かつてないほど正常で、そして高揚していた。


(これは……ただの怨念じゃない。悲しみ、怒り、絶望……過去にこの場所で渦巻いたあらゆる負の感情が、まるで地層のように何層にも積み重なって、長年の時を経て熟成された、最悪の『汚れ』だ……!)


 それは、カレー鍋のこびりつきとも、銀食器の黒ずみとも次元が違う。

 いわば、千年間放置された、神々の食器だ。

 これを洗い上げることができたなら、俺は【洗い物】のプロとして、どれほどの高みに到達できるだろうか。


 ゴクリ、と俺は喉を鳴らした。

 武者震いが止まらない。


「決めました」


 俺は、カインの顔を真っ直ぐに見据えて、はっきりと告げた。

「この物件にします。最高の場所を紹介してくださって、ありがとうございます」

「なっ……!?」


 俺の満面の笑みでの感謝の言葉に、カインは完全に意表を突かれた顔で固まった。

 彼の脳内では、俺が恐怖に慄き、彼の挑発に屈辱の表情を浮かべるシナリオが描かれていたのだろう。だが、現実は真逆だ。


「き、貴様、正気か!? この呪いの意味が分かっていないのか!」

「分かっていますよ。だから、最高の物件だと言ってるんです」


 俺は、もはや彼の挑発など意にも介さず、羊皮紙を手に取った。

「さあ、早く行きましょう! 俺はもう、一刻も早くこの『汚れ』を、洗いたくてたまらないんです!」


 ◇


 俺たちは、カインの案内で、問題の物件へとやってきていた。

 商業区の一等地。その言葉に嘘はなかった。大通りに面したその場所は、多くの人々で賑わっている。

 だが、その一角だけが、まるで空間ごと切り取られたかのように、異様な空気を放っていた。


「ひっ……」


 セナさんが、小さく悲鳴を上げる。

 目の前に建つそれは、もはや廃墟と呼ぶのも生温い代物だった。

 壁は崩れ落ち、窓ガラスは全て割れている。蔦が建物全体を覆い尽くし、その内側からは、ドス黒い瘴気がゆらゆらと漏れ出しているのが、俺以外の三人にもはっきりと見えているようだった。


「こ、これは……想像以上ね……」

 リリアがゴクリと喉を鳴らす。


 噂を聞きつけたギルドの冒険者たちも、遠巻きにこちらを窺っていた。

「おい、本当にあそこを浄化する気か……?」

「無茶だ。あそこは高名な聖職者ですら匙を投げた、死地だぞ……」


 その様子を満足げに眺めながら、カインが勝ち誇ったように言った。

「フン……どうだ、アラタとやら。今からでも遅くはない。僕の靴を舐めて許しを乞うなら、この話はなかったことにしてやってもいいが?」


 だが、俺は彼の言葉など聞こえていないかのように、恍惚とした表情で廃墟を見上げていた。


「素晴らしい……。外壁にこびりついたこの瘴気は、まるで頑固な油汚れだ。内側から漏れ出す怨念は、魚の生臭さにも似ている。そして、この土地全体に染みついた呪いは……ああ、これはもう、洗い物のフルコースだ……!」


 俺は抑えきれない衝動のまま、一歩、また一歩と廃墟に足を踏み入れていく。


「アラタ! 危ない!」

 リリアの制止の声も耳に入らない。


 俺は建物の中心に立つと、ゆっくりと目を閉じた。

 そして、両手を広げる。


(まずは、建物全体を覆う、この大雑把な汚れからだ。洗剤をたっぷり含んだスポンジで、全体を泡で包み込むように……!)


 俺は【万物浄化】のエネルギーを、荒々しい奔流ではなく、温かくきめ細かい光の泡のように変化させ、建物全体へと解き放った。

 俺が新たに編み出した、広範囲浄化技術。


 《泡洗浄 -バブル・ウォッシュ-》!


 俺の体から放たれた無数の光の粒子が、廃墟全体を優しく包み込んでいく。

 すると、建物を覆っていたドス黒い瘴気が、光の泡に触れた瞬間から、シュワシュワと音を立てて弾け、霧散し始めた。

 崩れた壁が、割れた窓が、まるで逆再生の映像のように、元の姿へと修復されていく。


「な……なんだ、あれは……!?」

「瘴気が……消えていく……!」


 野次馬たちの驚きの声が聞こえる。

 だが、まだだ。まだ前菜が終わったばかりだ。


(次は、内部に染みついた怨念。これは繊細な作業が必要だ。まるでグラスを磨くように、一点の曇りも残さず、完璧に拭き上げる……!)


 俺は意識をさらに集中させ、光の粒子をより細かく、高密度なものへと変化させる。

 光の霧が建物の内部へと浸透し、壁や床に染みついた過去の悲劇の記憶――血の染みや、絶望の叫びの残滓を、一つ一つ丁寧に拭い去っていく。


 最後に残ったのは、この土地そのものに根を張る、巨大な呪いの大元だ。


(こいつがメインディッシュ……! 複雑に絡み合った、呪いの根源。これを断ち切る!)


 俺は、これまで培った全ての技術を総動員する。

 呪いの構造を瞬時に分析し、その『核』となる一点を見抜く。


 《一点集中洗い -スポット・クレンズ-》!


 浄化エネルギーを極限まで凝縮させ、光の槍となって土地の深奥へと突き立てた。


 キィィィィィンッ!


 ガラスが砕け散るような甲高い音が響き渡り、大地が微かに震える。

 それを合図に、土地に根ざしていた全ての呪いが、連鎖的に崩壊を始めた。


 全ての『汚れ』が洗い流された瞬間――。

 俺の目の前にあったのは、白亜の壁に青い屋根が映える、まるで新築のお城のような、神々しいまでに美しい建物だった。

 淀んでいた空気はどこまでも澄み渡り、そこはもはや呪われた土地ではなく、聖域と呼ぶにふさわしい清浄な気に満ちていた。


「…………」


 誰もが、言葉を失っていた。

 リリアも、セナさんも、クロエさんも、そして集まった冒険者たちも、目の前で起きた奇跡を、ただ呆然と見つめている。


「ば、馬鹿な……」


 カインが、かすれた声で呟いた。

「ありえない……! あの呪われた土地が……聖域のような気に……。こんなことが、あってたまるか……!」


 彼の妨害は、最悪の形で裏目に出た。

 俺の規格外の力を、この街で最も人通りの多い場所で、大観衆を前にして証明させる、最高の舞台装置となってしまったのだから。

 その屈辱に、カインはギリ、と奥歯を噛み締め、憎悪に燃える瞳で俺を睨みつけると、足早にその場から逃げ去っていった。


「す、すごい……すごすぎるわよ、アラタ!」

 我に返ったリリアが、興奮した様子で俺に駆け寄ってきた。

「あんなお化け屋敷が、こんな綺麗なお城に……!」


「アラタ様……本当に、素晴らしいです……」

 セナさんが、うっとりとした眼差しで建物を見上げる。


「アラタの店……私が、絶対に守る」

 クロエさんも、力強く頷いてくれた。


 その時、セナさんがポンと手を打った。

「そうだわ! このお店に、名前をつけませんと! アラタ様の聖なる力で、全てが生まれ変わる場所……そう、『アクア・リバイブ』なんて、いかがでしょう?」


 アクア・リバイブ。水による再生。

 それは、俺のスキルの本質を、あまりにも的確に表した名前だった。


「……いい、ですね。気に入りました」


 俺がそう答えると、三人は自分のことのように喜んでくれた。


 こうして、カインの悪意に満ちた妨害は、俺の名声をさらに高めるという皮肉な結果に終わり、武具・アイテム浄化専門店『アクア・リバイブ』は、最高の形で、この街に産声を上げたのだった。

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