第14話 守れぬ盾の慟哭と、職人の怒り
「さあ、最後はクロエの番よ! あなたのその呪われた大盾も、アラタにピカピカにしてもらいましょ!」
セナさんの涙も乾き、部屋に明るい雰囲気が戻ってきた中で、リリアが快活な声を上げた。
その言葉に、俺とセナさんの視線が、部屋の隅に立つ黒髪の少女、クロエさんへと自然に集まる。
リリアとセナさんの呪いが解けたのだ。当然、最後の一人である彼女の装備も浄化するのが、自然な流れだった。
だが、クロエさんの反応は、俺たちの予想を裏切るものだった。
彼女は、背負っていた巨大なタワーシールドを、まるで大切なものを守るかのようにぎゅっと抱きしめると、力なく首を横に振った。
「……私のは、いいんです」
その声は、か細く、そしてどこか諦めに満ちていた。
「リリアとセナの力が戻っただけで、十分です。私の盾は……もう、このままで……」
「クロエ……? 何言ってるのよ!」
リリアが、戸惑いの声を上げる。
クロエさんは、無理に笑顔を作ろうとして、失敗していた。その表情は、ひどく痛々しい。
その笑顔の裏に隠された、あまりにも深い絶望に、俺たちはまだ、誰も気づいていなかった。
「どうしてよ、クロエ! あなたの盾だって、アラタならきっと……!」
「無理なんです!」
食い下がるリリアの言葉を、クロエさんは悲痛な叫びで遮った。
いつも無口で、感情をあまり表に出さない彼女が見せた、初めての激しい反応だった。
「私の盾は……私の『イージス』は、もうただの盾じゃないから……」
彼女の大きな瞳から、ぽろり、と一筋の涙がこぼれ落ちた。
リリアが、唇を噛みしめる。セナさんが、辛そうに目を伏せる。
俺だけが、状況を理解できずに立ち尽くしていた。
重い沈黙を破ったのは、リリアだった。彼女は、まるで自分の罪を告白するかのように、ゆっくりと口を開いた。
「……クロエの盾、『イージス』は、本来ならどんな攻撃も受け止め、その衝撃を無に帰す、パーティーの絶対的な守りの要だった。でも、あのダンジョンで呪いを受けてから、その性質は真逆に反転してしまったの」
反転……?
「盾が受けたダメージは、無効化されることなく……その全てが、持ち主であるクロエ自身に、そのまま反射されるようになったのよ」
「なっ……!?」
俺は絶句した。
ダメージを、反射する……? 盾が、持ち主を攻撃するっていうのか?
クロエさんが、震える声で、リリアの言葉を引き継いだ。
「私が……私がみんなを守ろうと盾を構えるたびに、敵の攻撃が、そのまま私を苛むんです……。仲間を守るはずの力が、この身を内側から蝕んでいく……。あの時もそうでした。リリアを守ろうとボスの攻撃の前に立ったのに、盾が受けた衝撃で私の足が砕けて、動けなくなって……」
彼女の告白は、俺の想像を絶するものだった。
盾役が、仲間を守れない。それどころか、守ろうとすればするほど、自分だけが傷ついていく。
それは、彼女の存在意義そのものを否定する、あまりにも残酷な呪いだった。
「だから……もう、いいんです。私が盾を構えなければ、私が傷つくだけで済む。リリアとセナが本調子なら、きっと……」
自己犠牲。諦観。
彼女の心は、完全に折れてしまっていた。
守るべき仲間を守れなかったという絶望と、自分を傷つけ続ける呪われた盾への恐怖に。
その時だった。
(……ふざけるな)
俺の心の奥底で、今まで感じたことのない、静かで、それでいて燃え盛るような、黒い感情が湧き上がってきた。
なんだそれは。
盾が、持ち主を傷つける? 防具が、その役割を放棄して、牙を剥く?
そんなの間違ってる。あってはならないことだ。
それは、道具として、あまりにも醜い。
それは、本来の輝きを失い、その価値を貶める、許しがたい『汚れ』だ。
俺の人生で、家族から向けられた理不尽には、ただ耐えることしかできなかった。
社会の不条理には、ただ目を背けることしかできなかった。
だが、これだけは違う。
俺が唯一誇れる【洗い物】の世界で、道具が、その本質を捻じ曲げられている。
その事実が、俺の逆鱗に、明確に触れた。
「……嫌です」
気づけば、俺ははっきりとした口調で、そう呟いていた。
リリアも、セナも、そしてクロエさん本人も、驚いたように俺の顔を見る。
「俺は、嫌です。そんな間違った状態のまま、放置しておくなんて」
俺はクロエさんの前に、ずい、と歩み寄る。
いつもなら、美少女を前にすれば足がすくんで動けないはずなのに、今は不思議と、少しの恐怖も感じなかった。
「あなたの盾は、汚れているだけです。だから……俺に、洗わせてください」
俺の真剣な眼差しに、クロエさんの瞳が揺れる。
彼女はしばらく逡巡していたが、やがて、諦めたように、こくりと小さく頷いた。
そして、震える手で、背負っていた巨大な盾を俺に差し出した。
ズシリ、と腕に重みが伝わる。
見た目は、ただの傷だらけの鉄の塊だ。だが、その内部からは、自己破壊へと誘う、陰湿で歪んだ呪いのオーラが渦巻いているのが分かった。
(こいつは……リリアの『悪意』とも、セナの『恐怖』とも違う。『矛盾』と『自己否定』の呪いだ……!)
洗い甲斐が、ある。
俺は洗面器の水を新しく汲み直すと、盾をそこにそっと横たえた。
(ただ洗い流すだけじゃダメだ。呪いのエネルギーが複雑に絡み合い、自己完結した回路を形成している。これを壊すには、大元の結び目を断ち切るしかない)
俺は目を閉じ、全神経を指先に集中させる。
そして、俺が編み出した派生技術の一つを発動させた。
(呪いの核は……ここだ!)
《一点集中洗い -スポット・クレンズ-》!
俺は【万物浄化】のエネルギーを、針のように細く、鋭く凝縮させ、盾の中央に刻まれた紋様の、その中心点へと寸分の狂いもなく突き立てた。
ピシッ……!
まるでガラスにヒビが入るような、微かな音が響く。
それを合図に、盾の内部で複雑に絡み合っていた呪いの回路が、連鎖的に崩壊を始めた。
ドス黒い瘴気が、悲鳴を上げるように盾から噴き出し、霧散していく。
無数の傷に覆われていた盾の表面が、まるで溶けた金属が再生するかのように滑らかになっていき、その内側に秘められていた本来の輝きが、徐々に姿を現し始めた。
やがて、全ての呪いが浄化された時、俺の手の中にあったのは――。
白銀の光沢を放ち、その表面に黄金の守護紋様が浮かび上がった、神々しいまでの大盾だった。
脳内に、情報が流れ込む。
『アイテム名:神護の大盾(イージス・プライマル)』
『ランク:S』
『状態:浄化済』
『呪い:【ダメージ反射(ペイン・リターン)】→ 解除済』
『真の能力:【ダメージ吸収・還元(フルカウンター)】解放』
「……終わりました」
俺は、生まれ変わった大盾を、呆然と立ち尽くすクロエさんに差し出した。
「あ……」
彼女は、恐る恐る、その盾に触れた。
その瞬間、盾から放たれた温かい光が、クロエさんの全身を優しく包み込む。
「温かい……。これが、私を傷つけていた盾……? うそ……全然違う……。これが、本当の『イージス』の力……」
彼女の瞳から、再び涙が溢れ出した。
だが、それは先ほどまでの絶望の涙ではない。歓喜と、希望の涙だった。
「これで……今度こそ、みんなを……守れる……!」
クロエさんは、力強くそう呟くと、俺の方に向き直った。
そして、それまで見せたことのない、強い意志を宿した眼差しで俺を見つめると、何も言わずに、俺の右手を、彼女の両手でがっしりと掴んだ。
その手は、盾役らしく少し硬かったが、とても温かかった。
言葉は、ない。
だが、その力強い握力と、真っ直ぐな視線が、万の言葉よりも雄弁に、彼女の感謝と、そして絶対的な信頼を、俺に伝えてくれていた。
「よしっ!」
俺たちの様子を見ていたリリアが、満面の笑みで叫んだ。
「これで『クリムゾン・エッジ』は、完全復活よ! 明日は早速、ギルドに行って、Aランクへの復帰試験に挑むわ! もちろん、アラタも一緒に行くのよ!」
「へ……?」
ふ、復帰試験……?
それはつまり、あの恐ろしい魔物がうろついているという、『ダンジョン』に行くということ……?
(む、無理無理無理! 俺、ただの皿洗いですけど!?)
俺の心の絶叫をよそに、物語は、俺の意思とは関係なく、新たなステージへと進み始めていた。
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