第13話 賢者の涙と、詠唱恐怖症の浄化

「……アラタ殿、とお呼びしてよろしければ」


 ギルドマスター、レオルド・フォン・アークライト氏の真剣な声が、まだ騒然とした空気が残るホールに響く。

 俺みたいな薄汚いニートに、この街で一番偉いであろう人が、深々と頭を下げている。その異常な光景に、俺の脳は完全にフリーズしていた。


「貴殿のような稀有な才能の持ち主には、我々ギルドとして最大限の敬意と、そして支援をさせていただきたい。つきましては、一つ、特別なご提案があるのだが……このギルドの特別顧問として、貴殿を正式に招聘したいと考えている。もちろん、報酬は最高ランクで……」


「む、む、む、無理ですっっ!!」


 俺は、レオルド氏の言葉を遮って、全力で叫んでいた。

 と、特別顧問!? ぎ、ギルドの!? 人がいっぱいいる、あの陽キャの巣窟の!?


「ぜ、絶対に無理です! 俺、人と話せませんし、そもそも外に出るのも苦手で、一日中物置にいないと精神が安定しない体質なんです! ですから、本当にご勘弁を!」


 我ながら何を言っているのか分からないが、とにかく拒絶しなければという一心だった。

 俺の必死の形相に、さすがのギルドマスターも呆気に取られている。

 その時、俺の隣にいたリリアが、ポンと俺の背中を叩いて助け舟を出してくれた。


「ま、まあまあギルドマスター! アラタはちょっと人見知りなだけなんです! それに、まだあたしたちの仲間も救ってもらってないですし! そのお話は、また後でゆっくりってことで!」


 リリアはそう言うと、俺の腕をぐいっと掴んだ。

「さ、アラタ! こんなとこに長居は無用よ! あたしたちの拠点に行きましょ!」

「は、はいぃぃ!」


 俺は蜘蛛の子を散らすように、その場から逃げ出した。

 背後で、煤まみれのカインが「あの汚物が……!」と憎悪に満ちた声で呟いているのが聞こえたが、もう振り返る余裕なんてなかった。


 ◇


「ふぅ……着いたわよ! ここがあたしたち『クリムゾン・エッジ』の拠点!」


 リリアに連れてこられたのは、ギルドからほど近い、一軒の宿屋だった。通されたのは二階の一番奥の部屋。決して広くはないが、綺麗に整頓されていて、どこか家庭的な温かみを感じる空間だった。


「ようこそ、アラタ様」


 部屋に入ると、銀髪の魔法使いの少女が、優雅にお辞儀をして出迎えてくれた。

 リリアが俺の隣で紹介してくれる。

「こっちが、あたしたちのパーティーの頭脳、魔法使いのセナ・シルヴァームーンよ。で、こっちが無口だけど頼れるあたしたちの壁、盾役のクロエ・アイアンハート!」

「……よろしく」


 黒髪を短く切りそろえた、屈強な体格の少女、クロエさんが小さく会釈する。二人とも、ギルドでの騒ぎを見ていたからか、その瞳には俺への強い興味と、そして隠しきれない期待が宿っていた。


(うぅ……美少女に囲まれてる……。俺の人生で、こんな陽の当たるシチュエーションがあっていいのか……?)


 俺が部屋の隅で縮こまっていると、セナさんがおずおずと一歩前に進み出た。


「あの……アラタ様。リリアのガントレットを浄化してくださり、本当にありがとうございました。次は……私のこの装備を、お願いできないでしょうか……」


 そう言って彼女が差し出したのは、銀細工の美しいサークレットだった。中央には、澄んだ蒼色の宝石がはめ込まれている。

 だが、その宝石は、まるで濁った水のように淀み、本来の輝きを失っていた。


「私の『賢者のサークレット』です。かつては、私の魔法詠唱を補助してくれる最高の装備でした。でも……」


 セナさんの表情が、辛そうに歪む。


「あのダンジョンで呪いを受けてから、逆になってしまったんです。詠唱を……強制的に失敗させる呪いに……」


 彼女の声は、震えていた。

「あの時……あと一瞬、詠唱が早ければ、私の防御魔法が間に合っていれば、リリアはあんな大怪我を負わずに済んだんです……! それ以来、魔法が怖くて……大事な場面で、いつも喉が詰まるように、言葉が出てこなくなるんです……!」


 それは、ただのデバフじゃない。彼女の心に深く刻まれた、トラウマそのものだった。

 俺は黙って、そのサークレットを受け取った。


(なるほど……これは、リリアのガントレットとは全く違うタイプの『汚れ』だ)


 ガントレットの呪いは、純粋な悪意の塊だった。だが、こいつは違う。粘着質で、陰湿で、持ち主の自己嫌悪と恐怖を養分にして、じわじわと根を張るタイプの呪いだ。


(洗い甲斐が、ある……!)


 俺は、宿屋の主人に断って、洗面器に綺麗な水を汲ませてもらった。

 そして、サークレットをそっと水に浸し、目を閉じて意識を集中させる。


(力任せに引き剥がしちゃダメだ。本体を傷つけてしまう。まるで、こびりついて炭化した鍋の焦げ付きだ。強火で熱するんじゃなく、重曹を入れた水で、弱火でコトコト煮込むように……優しく、丁寧に、呪いの構造を内側から崩していく……)


 俺は【万物浄化】のエネルギーを、荒々しい奔流ではなく、温かく穏やかな霧のように変化させ、サークレット全体を包み込むように浸透させていく。

 俺の得意技、《浸け置き洗い -ソーク・ウォッシュ-》の応用だ。


 パチ……パチ……。


 サークレットに絡みついていた呪いの糸が、一本、また一本と、静かに解けていくのが分かった。


 やがて、サークレットの中央にはめ込まれた蒼い宝石が、まるで夜明けの空のような、澄み切った輝きを取り戻した。


 脳内に、情報が流れ込む。


『アイテム名:叡智のサークレット(ウィズダム・サークレット)』

『ランク:S』

『状態:浄化済』

『呪い:【詠唱失敗(スペル・フェイル)】→ 解除済』

『真の能力:【思考加速(マインド・アクセル)】解放』


「……できました」


 俺は目を開け、生まれ変わったサークレットをセナさんに手渡した。


「あ……」


 セナさんは、震える手でそれを受け取ると、ゆっくりと自分の額に装着した。

 その瞬間、彼女の紫色の瞳が、驚きに見開かれる。


「暖かい……。ずっと頭の中を覆っていた冷たい霧が、晴れていくようです……。思考が……クリアに……!」


 彼女は、まるで確かめるように、小さく息を吸い込んだ。そして、祈るように両手を組み、澄んだ声で、短い呪文を紡ぎ始める。


「“小さき光よ、我が指先に集え”――《ライト》」


 彼女の指先に、ぽっ、と柔らかく、そして一点の揺らぎもない、完璧な光の玉が灯った。

 それを見た瞬間、セナさんの瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。


「う……うぅ……! できた……! 魔法が、使える……! もう、怖くない……!」


 彼女は、その場に泣き崩れた。

「ありがとうございます、アラタ様……! 本当に……本当に、ありがとうございます……!」

「セナ!」

「よかった……本当によかったわね!」


 リリアとクロエさんが、泣きじゃくるセナさんを優しく抱きしめる。

 その光景を眺めながら、俺の胸にも、またあの温かい感情がじんわりと広がっていく。

 俺の力が、また誰かを笑顔にできた。トラウマという、心の『汚れ』さえも、洗い流すことができたんだ。


 涙が落ち着いたセナさんは、少し頬を赤らめながら、俺の顔を上目遣いに見つめてきた。

「あの……アラタ様。このご恩は、一生忘れません。私……あなたの為なら、どんなことでも……」


「ひっ! い、いえ、そんな、俺はただ洗っただけですから!」


 美少女からの好意に免疫のない俺は、思わず後ずさってしまう。

 その時、ふと、部屋の隅で黙って俺たちのやり取りを見ていた、クロエさんと目が合った。


 これで、残るは彼女の装備だけだ。

 リリアが、明るい声で切り出した。


「さあ、最後はクロエの番よ! あなたのその呪われた大盾も、アラタにピカピカにしてもらいましょ!」


 だが、クロエさんの反応は、意外なものだった。

 彼女は、背負っていた巨大な盾を抱きしめるようにして、力なく首を横に振った。


「……私のは、いいんです」


 その声は、小さく、そしてどこか諦めに満ちていた。


「リリアとセナの力が戻っただけで、十分です。私の盾は……もう、このままで……」


 彼女は、無理に笑顔を作ろうとして、失敗していた。

 その笑顔の裏に隠された深い苦悩に、俺たちはまだ、誰も気づいていなかった。

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