第5話 ゴミのように捨てられた日、俺の世界は終わった

カンドウ……?


 父親の口から放たれたその言葉は、まるで異国の響きのように俺の耳を通り過ぎていく。理解が、追いつかない。現実感が、ない。目の前にいるのは、本当に俺の家族なのだろうか。


「……何、言ってるんだよ、父さん」


 かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、震えていた。


「俺は、言われた通り、ちゃんとやったじゃないか。食器だって、完璧に……」


「黙れッ!!」


 父親の怒声が、俺の言葉を叩き潰す。

「お前のその『完璧』が、俺の顔に泥を塗ったんだ! 分からんのか、この出来損ないが!」


 分からない。

 分かるはずがない。

 俺がこれまで生きてきて、唯一、誰にも負けないと自負していたもの。唯一、自分の価値だと信じていたもの。それを、真正面から否定された。


「あなた……」


 それまでヒステリックに叫んでいた母親が、すっと父親の腕に自分の手を重ねた。その表情は、先ほどまでの激情が嘘のように、凪いだ湖面のように静かだった。


「もう、いいのよ。あの子のことは忘れて、私たちで新しい人生を始めましょう? ね?」


 その声は、慈愛に満ちた母親のそれとは程遠い、何か得体の知れないものを切り捨てるかのような、底冷えのする響きを持っていた。


(忘れる……? 新しい人生……?)


 まるで、俺が最初からこの世に存在しなかったかのように。

 まるで、俺という名の「汚れ」を洗い流して、綺麗な家族をやり直すかのように。


「そーそー! パパ、ママ! やっとあのゴミがいなくなるんだね!」


 追い打ちをかけたのは、スマホをいじりながらクスクスと笑う妹のミカだった。その顔には、一片の同情も、悲しみもない。ただ、邪魔者が消えることへの純粋な喜びだけが浮かんでいた。


「やったー! これで、お兄ちゃんのあのキモい部屋、私がもらっていいでしょ? 壁紙とかピンクにしてさー、超サイコーじゃん!」


 ああ、そうか。

 俺の居場所は、もう、この家のどこにもないんだ。

 俺がいた部屋は、ピンクの壁紙に塗り替えられて、俺の痕跡は綺麗さっぱり消されてしまうのか。


「さっさと出ていけ」


 父親が、玄関のドアを指差す。その目は、道端の石ころを見る目だった。


「二度と、この家の敷居をまたぐな。お前は今日この瞬間から、俺たちの家族ではない」


 俺は、何も言えなかった。

 ただ、夢遊病者のようにふらふらと歩き、玄関で靴を履く。振り返っても、誰も俺を見てはいなかった。父親は母親の肩を抱き、妹は新しい部屋のインテリアでも検索しているのか、スマホの画面に夢中だ。


 ガチャリ、とドアノブを回す。

 背中に投げつけられた「さっさと消えろ、穀潰し」という父親の最後の言葉を合図に、俺は生まれ育った家から、外の世界へと押し出された。


 バタンッ!!


 背後で無慈悲に閉められたドアの音が、俺と家族との繋がりを完全に断ち切った。


 シン、と静まり返った真冬の夜。

 冷たい風が、着ていた薄いスウェット一枚を容赦なく突き抜け、体の芯から体温を奪っていく。


(さむい……)


 ポケットに手を入れるが、暖めてくれるものは何もない。あるのは、洗濯で丸まった糸くずだけだ。

 財布も、スマホも、部屋に置いたままだった。いや、持たされなかった。

 俺は文字通り、この身一つで、極寒の夜の街に放り出されたのだ。


 どこへ行けばいいのか、何をすればいいのか、全く分からない。

 ただ、あてもなく歩き始めた。


 通り過ぎる家々の窓からは、暖かなオレンジ色の光が漏れている。中では、きっと俺の家族のように、「普通の」家族が、笑い合いながらテレビを見ているのだろう。

 その光景が、まるで違う世界の出来事のように感じられた。


 俺は、あの光の中にいることを許されなかった人間なのだ。


 どれくらい歩いただろうか。足の感覚はとうになくなり、体は鉛のように重い。

 俺は、近所の小さな公園にたどり着き、雪がうっすらと積もったベンチに、崩れるように腰を下ろした。


 キィ、と錆びたブランコが風に揺れる音が、やけに大きく聞こえる。


(なんで、こうなったんだ……?)


 頭の中で、何度も同じ問いが繰り返される。

 俺は、ただ言われたことをやっただけだ。

 この家で唯一の役割だった【洗い物】を、俺にできる最高の形で、完璧にこなした。

 祖母の形見だという銀食器も、魂を削るような思いで、あの得体の知れない「淀み」ごと浄化した。


 その結果が、これか。

 完璧な仕事に対する報酬が、勘当? 追放?


 理不尽だ。

 あまりにも、理不尽すぎる。


 だが、怒りよりも先に込み上げてくるのは、どうしようもない虚しさと、絶望だった。


 結局、俺の価値なんて、そんなものだったのだ。

 どれだけ完璧に食器を磨き上げようと、家族にとって俺は「いない方がいい存在」。

 邪魔で、汚くて、目障りなだけの、失敗作。


 家族にさえ必要とされない俺が、この世界のどこで必要とされるというのだろう。


「……ははっ」


 乾いた笑いが漏れた。

 ああ、そうか。俺はずっと勘違いしていたんだ。


 俺はゴミじゃない。

 ゴミは、まだ何かの役に立つ可能性がある。リサイクルされたり、埋め立て地になったり。

 俺は、ゴミ以下だ。

 存在しているだけで、周りを不快にさせる汚物。

 だから、洗い流されなきゃいけなかったんだ。家族という綺麗な世界から。


 心の底から、そう思った。

 俺は、本当にただのゴミなのだと。生きていてはいけない存在なのだと。


 冷え切った指先が、もう動かない。意識が、だんだん遠のいていく。

 このままここで凍えて、誰にも気づかれずに死んでいくのが、俺という汚物に相応しい最期なのかもしれない。


 薄れゆく意識の中、俺はぼんやりと夜空を見上げた。

 厚い雲に覆われた、光のない空。


 その時だった。


 ピカッ……!


 夜空を覆う分厚い雲の向こう側が、まるで巨大な閃光弾が炸裂したかのように、一瞬だけ禍々しい紫色に光った。


(……え? いまの、なに……?)


 雷……? いや、違う。音はしない。

 ただ、不気味な光だけが、網膜に焼き付いている。


 空を見上げたまま呆然とする俺の頬に、ぽつり、と冷たい何かが落ちてきた。

 雪だ。

 だが、それはただの雪ではなかった。

 触れた頬の部分が、微かにピリピリと痛む。まるで、弱々しい呪いでもかけられたかのように。


 世界が、何かに軋むような、嫌な予感が全身を駆け巡っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る