第4話 化粧室と間違えた客人、その一言が地獄の引き金だった

カビと埃の匂いが充満する物置の中、俺は体育座りで膝に顔をうずめていた。壁一枚隔てたリビングからは、楽しそうな談笑と、時折響く高い笑い声が漏れ聞こえてくる。


(俺、マジでこの家の家具以下なんだな……)


 父親の、常務とかいうお偉いさんに対するゴマすりの声。母親の、普段の俺に対する態度とは似ても似つかない、上品ぶった猫なで声。妹の、学校の人気者を演じている時のような、愛想のいい相槌。


 家族全員が完璧な仮面をかぶり、幸せな家庭を演じている。その舞台に、俺という「失敗作」の居場所はどこにもない。いや、この薄暗い物置こそが、俺に与えられた唯一の定位置なのだ。


 どれくらいの時間が経っただろうか。リビングの喧騒が少しずつ落ち着き始め、玄関の方で「本日は誠にありがとうございました」「いやいや、こちらこそ」などという社交辞令が交わされるのが聞こえた。


(終わった……のか?)


 ガチャリ、と物置の扉がわずかに開いた。隙間から覗いた母親の目は、まるで汚物でも見るかのように冷え切っていた。


「常務様がお帰りになったわ。さっさと後片付けしなさい。食器の一つでも割ったら承知しないから」


 それだけ言うと、母はバタンと乱暴に扉を閉めた。感謝も、労いもない。あるのは命令と脅しだけだ。


 俺はゆっくりと立ち上がり、軋む体を伸ばしながらキッチンへと向かった。そこには、案の定、地獄のような光景が広がっていた。


 高級仕出し弁当の空箱、酒瓶、そして俺が魂を込めて磨き上げた銀食器とクリスタルグラスが、食べ残しやソースにまみれて無造作に積み上げられている。


(はは……見事な汚れっぷりじゃないか)


 だが、不思議と絶望は感じなかった。むしろ、安堵すら覚える。

 そうだ、これだ。これこそが俺の戦場であり、聖域だ。

 俺はエプロンを締め直し、ゴム手袋をはめる。カチリ、と意識が切り替わった。


「よし……やるか」


 まずはグラスからだ。残った酒を捨て、水で軽くすすぐ。ワインのシミは放置すると厄介なことになる。時間との勝負だ。

 次に、ソースや脂がこびりついた皿。これも、汚れが乾いて固着する前に、ぬるま湯に浸しておくのがセオリーだ。


 一つ一つの食器の状態を見極め、脳内で瞬時に最適な洗浄プランを組み立てていく。この没頭している瞬間だけが、俺が俺でいられる時間だった。


 無心でスポンジを動かし、何枚目かの皿を洗い上げていた、その時だった。


 背後で、キッチンのドアが静かに開く音がした。


(母さんか? また何か文句を言いに来たのか……?)


 うんざりしながら振り返ると、そこに立っていたのは、見知らぬ初老の男性だった。高そうなスーツを着こなし、人の良さそうな笑みを浮かべている。間違いない、父親が言っていた常務だ。


「おや、失礼。化粧室はこちらかと勘違いしてしまったようだ」


 常務はそう言うと、俺の手元に視線を落とし、目を丸くした。


「ほう……これは見事な手際だ。それに、そこの水切りカゴに並んだ食器の輝き……まるで新品のようじゃないか」


「あ……え……」


 突然のことに、俺の思考は完全に停止する。

 ダメだ。見つかった。父親の「息もするな」という言葉が、頭の中で警報のように鳴り響く。


 俺が声も出せずに固まっていると、常務はにこやかに続けた。


「君は、皿井さんのご子息かな? いやはや、感心、感心。最近の若い者は、家の手伝いの一つもしないのが当たり前だというのに、偉いもんだ」


 そう言って、常務は俺の背中をポン、と軽く叩いた。

 その瞬間だった。


「――常務、どうかなさいましたか?」


 ひやりとするほど冷静な声。

 いつの間にか、常務の後ろに父親が立っていた。その顔は笑顔だったが、目は全く笑っていない。俺と常務が一緒にいるのを見て、その瞳の奥に、一瞬だけ地獄の業火のようなものが燃え盛ったのを、俺は見逃さなかった。


「おお、皿井くん。いや、化粧室を探していてね。ご子息が後片付けをされているところだったのだが、実に感心な息子さんじゃないか。私のところの愚息にも見習わせたいくらいだよ」


「は、はは……お恥ずかしい限りです。さ、常務、玄関はこちらです」


 父親は常務を巧みに誘導し、リビングへと連れて行く。去り際に、一瞬だけ俺に向けられたその視線は、氷点下よりも冷たかった。


(やばい……やばいやばいやばい……!)


 全身から血の気が引いていくのが分かった。俺は何もしていない。ただ、そこにいただけだ。だが、そんな言い訳があの父親に通じるはずがない。


 数分後。玄関のドアが閉まる重い音が、俺への死刑宣告のように響いた。


 リビングから、母親と妹を連れた父親が、能面のような無表情でキッチンに入ってくる。


 シン……と、時間が止まったかのような静寂。蛇口から滴り落ちる水滴の音だけが、やけに大きく聞こえる。


 最初に沈黙を破ったのは、父親の地を這うような低い声だった。


「アラタ」


 びくり、と俺の肩が跳ねる。


「……貴様、俺が何を言ったか忘れたとは言わせんぞ」


「ち、違うんだ、父さん! あれは、常務さんが勝手に……」


「言い訳をするなァッ!!」


 ゴッ、と腹の底から絞り出すような怒声が、キッチンの空気を震わせた。


「客人の前に姿を現すなと! 息もするなと! あれほど、あれほど言っただろうがッ!!」


「なんてことをしてくれたの、この子は!」母親がヒステリックに叫ぶ。「常務様に、うちには出来の悪い引きこもりの息子がいるって知られちゃったじゃないの! お父様の顔に泥を塗って!」


「うわ、マジ最悪……。お兄ちゃんのせいでパパの出世がパーになったらどうすんのよ!」


 妹の軽蔑しきった視線が、槍のように俺に突き刺さる。


 違う。俺は悪くない。不可抗力だったんだ。

 そう叫びたかったが、喉が締め付けられたように声が出ない。俺を取り囲む三つの視線が、まるで俺という存在そのものを否定しているかのようだ。


 父親が、一歩、また一歩と俺に近づいてくる。その目には、もはや侮蔑や怒りではない、純粋な殺意のようなものが宿っていた。


「お前のような……お前のような失敗作さえいなければ……!」


 父親は絞り出すようにそう言うと、一度天を仰ぎ、そして、全てを諦めたかのような、虚ろな声で言った。


「もう……我慢の限界だ」


「出ていけ」


「え……?」


「お前は今日限り、この家の人間じゃない。お前のような汚点は、我が家には必要ない」


 父親は、冷酷に、そしてはっきりと宣告した。


「勘当だ」


 カンドウ……?

 その言葉の意味を、俺の脳はすぐには理解できなかった。

 ただ、目の前に立つ家族の冷え切った瞳が、それが揺るぎない事実であることを、雄弁に物語っていた。

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