第九章:訪問と記憶の全貌

めいあが暗い廊下に消えていった後、多目的ホールは凍りついたように静まり返っていた。

机の上に置かれたシチューはもう湯気も立てていない。


「……〇〇」


「……わりい、雰囲気壊して。俺、帰る」


俺はそれだけ言うと、カバンを掴んでホールを飛び出した。

咲良が何か言いたそうに俺を見ていた気がしたがもうどうでもよかった。



俺があいつを「壊した」



あの能面みたいな、光のない目。

俺の言葉があいつの最後の砦だった「絶対」を、粉々に砕いたんだ。



走った。

あいつが消えた廊下を抜け、昇降口を飛び出す。

だが暗い夜道に、あの小さな背中はどこにも見当たらなかった。


「くそっ……!」


罪悪感。

それだけじゃなかった。

得体の知れない恐怖が俺の背筋を這い上がってくる。

あいつは大丈夫なのか?あの状態で、一人で……。


ぞわっと、背中に最悪のシチュエーションが思い浮かぶ。




あいつの家はここから二駅隣だと聞いた。

俺は何も考えられないまま、駅に向かって走り出していた。



でも、結局、めいあを見つけられなかった。



~~~




翌日、めいあは学校に来なかった。

昨日まであれほどうるさかった教室が、静まり返っている。

ホームルームで担任が「市川(めいあ)は今日は風邪で休みだ」と事務的に告げた。



(市川……?)


そういえば、俺はあいつの苗字すら、まともに意識していなかった。

俺は、あいつの家すら、どんな生活をしているかすら知らなかった。



以前強引に渡された「奥さん名刺」にも「めいあ(ダーリンの奥さん)」としか書かれていなかった。

あいつは俺にとってずっと「めいあ」でしかなかった。



~~~



放課後。



俺は咲良や友人たちの呼びかけも振り切り「市川」の表札がかかった家を探した。



あった、駅から10分ほど歩いた所にある、古びた一軒家。


もう、後には引けない。

俺は震える指でチャイムを押した。



「……はーい」

数回のコールの後、出てきたのは優しそうな、腰の曲がったおばあさんだった。


「はい、どちら様かね?」


「あ、あの……!俺、##高校の……めいあさん、いますか?」

俺の言葉に、おばあさんはきょとんとした顔をした。


「めいあ?あの子なら、風邪引いちゃったみたいで、今日は部屋で寝てるよ。お友達かい?」


「あ、はい……そうです。ちょっと、昨日……」


俺が言葉を濁していると、おばあさんは俺の顔をじっと見つめてきた。


「……まあ。立ち話もなんだ。上がりなさい。お茶でも淹れるから」



~~~



通された居間は潮の香りが染み付いているような、懐かしい匂いだった。


「めいあは大丈夫なんですか?」

「熱が高いみたいでね。うなされてるよ。……あの子、あんなに熱出すのここに来た時以来かねえ」


おばあさんはそう言って、緑茶を出してくれた。


「……もしかして」

「君が〇〇くんかい?」


「え……なんで、俺の名前……」


「めいあが毎日、毎日、嬉しそうに話してくれたからねえ。『ダーリンが』『ダーリンが』って。

 ……あの子があんなに楽しそうにしてるの本当に久しぶりだったんだよ」


おばあさんの言葉が胸に突き刺さる。


「……あの子、昔……幼馴染の子と、約束したって言っててね」


俺はゴクリと唾を飲んだ。


おばあさんはゆっくりと語り始めた。

あいつの両親のこと。仕事がうまくいかず、借金だけが膨らんで、夫婦仲も最悪になっていったこと。

まだ幼かっためいあを、自分たち祖父母に預けて「すぐに迎えに来る」と約束して消えたこと。



「蒸発だよ。……あの子の前では口が裂けても言えないけどね」


「あの子、最初は毎晩泣いてた。『パパとママは絶対迎えに来る』って。その『絶対』だけを信じて、ずっと待ってた」


「……」


「でも、何年経っても、来ない。電話一本、手紙一通ない。……あの子は自分の中で、一番信じてた『絶対』を、あいつらに裏切られたんだ」


おばあさんの目には涙が浮かんでいた。


「それからだよ。あの子が『約束』って言葉に、異常にこだわるようになったのは。

 ……壊れない『絶対』が欲しかったんだろうねえ」


おばあさんは棚から小さな、古いオルゴールを持ってきた。


「そんな時、あの子が唯一、支えにしてたのが……君との『約束』だったんだよ」


「俺との……」


「『近所の男の子と、結婚の約束をしたんだ』って。プラスチックの指輪を、お守りみたいにずっと握りしめててね」



その瞬間完全に忘れていた記憶がフラッシュバックした。


めいあが見ていた光景。

公園の砂の匂い。

ガチャガチャのカプセル。

赤い偽物の宝石。



『俺、大きくなったら、お前のことお嫁さんにしてやるよ!』

『これは結婚指輪!……の予約!』



そうだ。

俺だ。

俺が言ったんだ。

あの時、引っ越すかもしれないと泣きそうになっていためいあを、元気づけるための小学生の浅はかな……冗談。



「あ……」


おばあさんは優しく微笑んだ。


「高校で君と再会できた日、あの子、飛び上がって喜んでた。

『ダーリンが約束を覚えててくれた!』って。……君があの子を『めいあ』って呼んでくれたって」



俺は言葉を失った。

俺が昨日、叩き割ったものはなんだ?

あいつの歪んだ執着?

鋼のメンタル?



違う。

俺が破壊したのは十数年間、たった一人で抱え続けてきた、唯一の命綱だったんだ。



「……俺は……」


「俺はなんてことを……実は、この前、喧嘩して、ひどいことを……」


「……何となく、分かっていたよ。あの子の沈み具合で……」


「……っ!」


「……もし、まだ、間に合うなら。……あの子と、もう一度、話してやってくれないかね」

「ただ、今はそっとしておげてほしい。あの子も君も、きちんと向き合えるようになるまで……」



俺は緑茶の湯呑みを握りしめていた。


自分の手が情けないほど震えているのが分かった。



俺が背負うべき「約束」の重さが今、現実のものとして、俺の全身にのしかかってきた。

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