第八章:明確な拒絶と笑顔の崩壊

文化祭準備は地獄の様相を呈していた。


連日の買い出し、終わらない内装作業、そして……連日、甲斐甲斐しく夜食を持って現れる、めいあ。


俺の友人たちはとっくに胃袋を掴まれていた。


「〇〇の奥さん、マジでいい嫁さんだよな!」

「昨日もカレー美味かったわ。今日はシチューだってよ!」

「“ダーリン”様!お疲れ様っす!」


多目的ホールに響き渡る、場違いにハイテンションな声。

その声が聞こえるたび、作業に集中していた俺の肩がこわばる。


「ほら、ダーリン!今日の愛妻シチューっす!ニンジンもハート型にしたっすよ!」


「……ああ。サンキュ」


「も〜!元気ないっすね!ダーリンが頑張ってるから、奥さんとしてサポート頑張るっす!」


俺が差し出されたシチューの皿を受け取るのを、少し離れた場所で、咲良が見ていた。

咲良も、自分のクラスの出し物の準備で残っているらしかった。

彼女は……ただ、何もかも諦めたような顔で、ふいっと目をそらした。


その視線が俺の心の最後の何かを、ブチリと切った。


なんで、俺がこんな目に。

なんで、咲良にあんな顔をさせなきゃいけないんだ。

全部、こいつのせいだ。

こいつの歪んだ「絶対」のせいだ。


……いや、俺が明確に拒絶しないからだ。きちんと言わなければ。



俺は受け取ったシチューの皿を、近くの机にガチャンと乱暴に置いた。


「あれ?ダーリン?食べないんすか?もしかして……」


「……いい加減にしろよ」


「え?」めいあの声が一瞬止まった。友人たちの声も、ピタリと止まる。


「今、なんか……」


「俺が言ってるんだよ!!」


俺は自分でも驚くほどの大声で叫んでいた。

多目的ホールに、俺の声が反響する。


俺は目の前でキョトンとしている、めいあを睨みつけた。


「お前のことだよ、めいあ!いい加減にしろ!」


「え……え?ダーリン?なに怒ってるんすか?もしかして、シチューがお口に合わなかったとか……」


「そうじゃねえだろ!!」


俺は震える手で自分の頭をかきむしった。もう、我慢の限界だった。


「毎日毎日、なんなんだよお前は!『ダーリン』とか『奥さん』とか……やめろよ!もう!」


「……え」


「俺はお前のダーリンじゃねえし、お前も俺の奥さんじゃねえ!」


言った。

今まで、心の奥底で思っていても、あいつの過去の影に怯えて言えなかった言葉。

俺の口から放たれた言葉はナイフのように冷たく、静まり返ったホールに突き刺さった。



めいあの顔から、笑顔が……消えかけていた。

だが彼女はまるで壊れた機械が再起動するかのように、ゆっくりと、いつもの笑顔を顔に貼り付け直そうとした。



「……あはは。ダーリン、何言ってるんすか?文化祭の準備で、疲れすぎてるんすよ」


「疲れてるよ!お前のせいでな!!」


「おい、○○……」

友人の一人がさすがにヤバいと思ったのか、俺の肩に手を置こうとする。俺はそれを振り払った。



「お前らもだ!『奥さん』とか『嫁さん』とか、面白半分で言うのやめろ!俺は迷惑なんだよ!」


友人たちは俺の剣幕に気圧されて、押し黙る。

もう、誰も俺を止められない。



「めいあ」

俺はもう一度、震える彼女に向き直った。


「距離、取ってくれって言ったよな?俺に構うなよ。もう、うんざりなんだよ!」


これが俺の全力の明確な拒絶だった。

もう、歪曲させる隙なんか与えない。


めいあはカタカタと小さく震えていた。

だがまだだ。まだ、彼女は「めいあ」の仮面を被ろうとしていた。



「……ふふ。そっか。ダーリン、今、すっごく重い人に絡まれて、疲れちゃってるんすね」


「……は?」


「そんな重い人いたら、そりゃ疲れますよ。大丈夫すか?」


いつもの歪曲だ。

俺の言葉を「俺ではない誰か」の言葉として、他人事として処理しようとしている。



「違う」



俺は冷たく言い放った。


「お前のことだよ」


「……」


「お前が重いんだよ」


俺の言葉が最後の引き金になった。


めいあの顔に貼り付いていた、あの太陽みたいな、ウザったいほどの笑顔が音を立てて崩れた。

いや、違う。崩れたんじゃない。砕け散った。



ガラス細工がハンマーで叩き割られたみたいに。

彼女の顔から、全ての表情が抜け落ちた。いつもキラキラと輝いていた瞳から光が消えた。

そこにあるのは俺の知らない、能面のような、感情の一切を失った顔。


俺の目の前にいるのはただの「抜け殻」だった。

両親の「絶対」を失い、俺の「絶対」にすがっていた子供がその最後の「絶対」を、今俺自身の手によって破壊された瞬間。



めいあは何も言わなかった。


「っす」とも言わない。

「ダーリン」とも呼ばない。


彼女は持っていたシチューのおたまを、カラン、と鍋の中に落とした。

そして、ゆっくりと俺に背を向けた。



泣きもしない。わめきもしない。

ただ、まるで糸が切れた操り人形みたいに、ふらふらとした足取りで、多目的ホールの出口に向かって歩き出した。


めいあは振り返らなかった。

その小さな背中がゆっくりと、夜の暗い廊下に消えていく。



シーンと静まり返った多目的ホール。

友人たちも、遠巻きに見ていた咲良も、俺も、誰も動けなかった。


ただ、机の上に置かれたシチューだけが白い湯気を立てていた。

その匂いが今はひどく、場違いに感じられた。


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