第七章:離婚届という名の距離

咲良が教室を出て行った後、俺はしばらく動けなかった。

腕に絡みつくめいあの体温だけがやけに生々しく現実を突きつけてくる。



『私の勝ちっす!』



無邪気に笑うめいあの顔を、俺は直視できなかった。

咲良のあの諦めたような、悲しい顔がまぶたに焼き付いて離れない。


このままじゃダメだ。

めいあの言いなりになって、咲良との関係まで壊されてたまるか。



俺の中で何かが限界に達しつつあった。


その日から俺はめいあから意識的に距離を取る戦略に出た。



幸い、来週に迫った文化祭の準備が本格的に忙しくなってきた。

俺たちのクラスはお化け屋敷をやることになっている。

俺は実行委員の仕事とは別に、クラスの備品調達係にも立候補した。


とにかく、めいあと二人きりで下校する時間を作らない。

それが俺の最優先事項だった。



「あ、ダーリン!今日も一緒に帰るっすよ!今日は肉じゃがっす!」


放課後のホームルームが終わるや否や、めいあが俺の席に飛んでくる。

いつもの光景。


「悪い、めいあ。俺、今日から文化祭の準備で残るから」


俺はできるだけ事務的に冷静に告げた。


めいあの笑顔がピシッと一瞬だけ固まった。


「……え?準備?ダーリン、実行委員の仕事はもう終わったって……」


「いや、クラスの方の係。お化け屋敷の備品、買い出しとか色々あるんだよ」


嘘は言っていない。

実際放課後、クラスの男子数人と買い出しに行く予定が入っていた。



俺の言葉に、めいあは数秒間、何かを考えるように黙り込んだ。

いつもの「愛の試練っすね!」が来るか?

それとも「私も手伝うっす!」と押しかけてくるか?


俺が身構えていると、めいあは息を吐いて、完璧な笑顔に戻った。


「そっか〜!ダーリン、お化け屋敷係なんすね!大変っす!」


「あ、ああ……」


「え〜?今日は一緒に帰れないんすか〜?寂しいっすよ〜……」


めいあはわざとらしくシュンとうなだれて見せる。

だがすぐに顔を上げた。


「……でも、大丈夫っスよ!」


「え?」


「なんたって私は物分かりのいい奥さんっすから!」


出た。

そのセリフを言われると、逆に背筋が寒くなる。


「ダーリンがみんなのために頑張るっていうなら、奥さんは全力でサポートするっす!応援してるっすよ!」


「お、おう……。じゃあ、俺、行くわ」


あっさりと引き下がっためいあに、俺は拍子抜けしつつも、安堵していた。


(なんだ……意外と、分かってくれるじゃないか)


俺はこの数週間で初めて感じる解放感に、少しだけ浮かれながら教室を出た。


もちろんそれはとんでもない勘違いだった。



~~~



買い出し組の友人たちと合流し、俺たちはホームセンターへ向かった。

ベニヤ板だの黒い布だの血糊用の絵の具だのリストを見ながらカゴに放り込んでいく。


「いやー、来てくれて助かったわ。これ、一人じゃ無理だった」


「気にするなよ。どうせ暇だったし」


「暇って……お前、いつもあの可愛い幼馴染ちゃんとイチャイチャ帰ってんじゃん。羨ましいぜ、ちくしょう」


「やめろよ!イチャイチャなんか……」


俺が慌てて否定していると、別の友人がニヤニヤしながら口を挟んできた。


「だよなー。あんな可愛い子に『ダーリン』とか言われてみてえわ。なあ、〇〇の『奥さん』なんだっけ?」


「だから!奥さんとかじゃねえって!」


友人たちのからかいに、俺は必死で抵抗する。

こいつらには俺の地獄は理解できないらしい。



~~~



会計を済ませ、大量の荷物を抱えて学校へ戻る。

日はとっくに落ちて、辺りは真っ暗だ。

作業場所になっている、校舎裏の多目的ホールへ向かう。


「うっし、着いた。……あれ?」


多目的ホールの入り口の前に、人影が一つ、ポツンと立っていた。

こんな時間まで、誰だろうか。


「お疲れ様っす〜!」


その人影が聞き間違えるはずもないハイテンションな声で叫んだ。

俺は持っていたベニヤ板を落としそうになった。


「め、めいあ……!?なんで……」


「なんでって、ダーリンの夜食を届けに来たんすよ!物分かりのいい奥さんとして!」


彼女は背中には巨大なリュック、両手には明らかに五人分以上はあろうかという巨大な鍋を抱えていた。

鍋からは湯気と共に、カレーの匂いが立ち上っている。


「いや、あの俺たち、作業を……」


「ダーリン、お疲れ様っす!ほら、友人さんたちも!

 私のダーリンがいつもお世話になってます!妻のめいあです!」


めいあは俺の友人たちに向かって、深々と頭を下げた。



「え、あ、あの……鍋?」

友人の一人が困惑したように俺と鍋を見比べる。


「そうです!ダーリンの夜食に、特製カレー作ってきたっす!

 ささ、皆さん!食べるっすよ!お皿も持ってきたっす!」


めいあは俺たちの返事も聞かずに、リュックから使い捨ての皿とスプーンを取り出し、テキパキとカレーを盛り付け始めた。


「いや、めいあ、俺たちはこれから作業が……」


「ダーリンは黙ってて!男は仕事、女は家庭!(昭和の価値観)

 安心して作業に集中できるように、私生活を完璧にサポートするのが奥さんっすから!」



ダメだ。

もう、何を言っても無駄だ。

こいつの「奥さん力」は俺の浅はかな「距離を置く」戦略など、軽く凌駕してくる。

「物分かりのいい奥さん」は「物分かりよくサポートに押しかける奥さん」という意味だったらしい。



「うおっ、このカレー、マジで美味くね!?」


「〇〇のお嫁さん、料理上手すぎだろ……」


友人たちは完全にめいあのペースに巻き込まれ、カレーを絶賛している。

俺は一人だけ頭を抱えていた。



逃げ場などなかった。

俺の友人たち、俺の学校生活、その全てが今この瞬間「ダーリンの奥さん」を名乗る舞台装置だった。

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