第零章:約束の灯火

わたしは知ってる。

パパとママはわたしが寝たふりをしている間に、いつも小さな声でケンカをしている。



「これから、どうするんだよ」

「わたしだって、わからないわよ!」


声がどんどん大きくなるのが怖くて、わたしはいつも耳をふさぐ。


シーリングライトの紐にぶら下がった、プラスチックの変な形の飾りがゆらゆら揺れている。

それだけがわたしの世界の全部だった。



家の中がダンボールの匂いであふれるようになった。

わたしのクレヨンや、くたびれたウサギのぬいぐるみも、ママが雑に箱に詰めていく。


「いい子にしてるのよ」

ママはそう言うけど、全然笑っていなかった。


わたしは「いい子」だから、何も言わずに頷く。

いい子にしてれば、またパパとママは笑ってくれる。そう思ってた。




ダンボールの匂いがしない場所は近所の小さな公園だけだった。

そこにはわたしよりちょっとだけ背の高い「彼」がいた。


彼はわたしが「いい子」じゃなくても遊んでくれる、唯一の人だった。

泥だらけになっても、転んで膝から血が出ても、彼は笑っていた。


「おー、派手にやったな!」

「ほら、立てるか?」


差し出された彼の手はいつも砂と汗の匂いがした。



その日も、わたしは公園の隅っこでしゃがみ込んでいた。

家には帰りたくなかった。ダンボールの匂いを嗅ぎたくなかった。



「どうした?腹でも痛いのか?」


彼がわたしの顔を覗き込む。

わたしは首を振る。


「……もうすぐ、お引越しするかもしれない」


絞り出した声は自分でもびっくりするくらい小さかった。

彼は一瞬だけ目を丸くして、それからニカッと笑った。


「なんだよ、そんなことか!」


「そんなことじゃない……」


「大丈夫だって!俺ら、またすぐ会えるだろ!」


根拠のない自信に満ちた彼の言葉がなぜかとても暖かかった。


「……ほんと?」


「本当だって!あ、そうだ」


彼はポケットをごそごそ探って、何かを取り出した。

ガチャガチャのカプセルに入ってる、安っぽいプラスチックの指輪。

赤い宝石のようなガラスがついてる。


「やるよ。それ、お守りな」


「いらない」


「なんでだよ」


「だってお守りじゃん。わたし、そんなんじゃないのがいい」


彼は少し考えて、わたしの前にしゃがみ込んだ。


「じゃあ……これは『約束』だ」


「やくそく?」


「そう。俺、大きくなったら、お前のことお嫁さんにしてやるよ!」


「……え?」


「だから、これは結婚指輪!……の予約!」


彼はわたしの左手の薬指に、大きすぎるプラスチックの指輪を無理やりはめた。


「だから、これ持ってたら、絶対また会える。絶対だ!」



“絶対”



わたしはその言葉を、舌の上で転がしてみた。

甘くて、キラキラしてて、今まで聞いたどんな言葉よりも強い味がした。


「……絶対?」


「おう!絶対だ!」


わたしは彼の手をぎゅっと握った。

これがわたしの最初の「絶対」になった。



~~~



でも、わたしが引っ越したのは彼の町から遠く離れた場所じゃなかった。

パパとママの家ですら、なかった。


大きな駅。知らない匂いのする電車。

そこには初めて会うおじいちゃんとおばあちゃんが立っていた。

ママはずっと下を向いて泣いていた。


「……めいあ、いい子にしてるのよ」


パパが震える声で言った。


「パパとママ、ちょっと遠くにお仕事探しに行くから。すぐ、迎えに来るから」


「うん」


わたしは「いい子」だから、頷いた。

左手の指輪を、ぎゅっと握りしめる。

これがあるから、大丈夫。



「絶対よ!絶対、また会おうね!」


ママがわたしの体を強く抱きしめた。



“絶対”



でもしばらくすると電話が来なくなって、手紙になった。

手紙も、来なくなった。



おじいちゃんが電話口で誰かに怒鳴っていた。

「蒸発……?ふざけるな!」


わたしは左手の薬指を見た。

プラスチックの指輪はとっくに色褪せて、偽物の赤い宝石もどこかに消えていた。

ただの汚れた輪っかになっていた。



パパとママの「絶対」は嘘だった。

簡単に壊れて、消えちゃった。



でも、大丈夫。

わたしにはもう一つの「絶対」がある。



公園の砂の匂い。


「俺がお前のことお嫁さんにしてやるよ!」



これだけは本当。

これだけはわたしが守る。

わたしが「いい子」じゃなくても、彼だけはわたしを見つけてくれる。



わたしは汚れたプラスチックの輪っかをポケットにしまい込んだ。


大丈夫。

絶対、また会える。



だって、わたしは彼の「奥さん」になるんだから。

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