九夏の桜

守智月 茶沙

第一話 灼ける道のうえで

 暑い。さっきから足元がふらつく。


 まだ午前中だというのに、降り注ぐ陽の光は、肌をグサグサと刺してくるようだ。

 なぜこんなに体が重いのかと考えて、家を出てから何も口に入れていないことを思い出す。


 バスを降りてすぐのところにコンビニがあった。あそこで何か買っておけばよかった、と今さらながら後悔する。あの時は、目的地へ向かう道を探すことで頭がいっぱいで、他のことを考える余裕なんてなかった。


 精神科の先生が言っていた、「何かに熱中しすぎて、他のことが見えなくなることはないか」という言葉がふと頭をよぎる。


 ――ああ、これか。


 今なら、この感覚がちゃんと「異常」なんだと、はっきりわかる。


「はあ、あっつい」


 顔に当たる日差しを、片手をかざしてなんとか遮ってみる。けれど、肌を刺すような熱は少しも和らいでくれない。不思議と、汗はほとんどかいていないようだった。


 歩けど歩けど、目に入るのは海とアスファルトだけ。

 海の青と、道の灰色。それ以外の色が、ほとんどない。


「距離としては、一時間半くらいで着くはずなんだけど……」


 どれくらい歩いたのか、自分でもよくわからない。息を切らしながらスマホを覗き込む。地図アプリを開いたままの画面の上に、小さく「10:16」と表示されていた。


「もう一時間も歩いてるのか」


 迷わずここまで来られたわけじゃないし、仕方ない。

 そう心の中で唱える。仕方ない、仕方ない、仕方ない……。


 足の進みがだんだん悪くなっているのも、自覚はしていた。原因はいくつか思い当たるが、今さらどうすることもできない。前にも後ろにも、食べ物が買えそうな店はおろか、飲み物を買える自販機すら見えないのだ。


 ――仕方ない。


 とりあえず日陰を探そうと、周りを見渡す。けれど、時間が悪いのか、場所が悪いのか、道路の上をすうっと横切るだけの細い影しかない。中を進んでいけるような、大きな日陰はどこにもなかった。


 再び「仕方ない」と自分に言い聞かせて、一歩、足を前に出す。


 その瞬間、立ちくらみのときのような、あの眩しさと暗闇が一気に押し寄せてきた。目の前が真っ白になり、そのあとすぐ真っ暗になる。


 いつもと同じように、いったん目をぎゅっと閉じる。近くにあった手すりを、手探りでつかんだ。


 しばらくそのまま動かずにいると、肌に感じていたジリジリとした暑さが、じわじわと戻ってくる。もう大丈夫かと、恐る恐るまぶたを上げた。

 視界は、少し揺れているような気がする。けれど、さっきまで見ていた景色はちゃんと戻ってきていた。


「……よし」


 小さくそう呟いて、もう一度歩き出す。




 どれくらい進んだだろう。

 ずいぶん歩いたような気もするし、全く進んでいないような気もする。


 ふと右手に目をやると、小さな坂道が一本、海から外れたほうへ伸びていた。坂道の途中には、ちょうど草木の影になっている、涼しそうな場所がある。

 坂の先は、木々に飲み込まれるようにして行き止まりになっているようだ。


 一瞬、あそこで座って休もうかと考える。

 けれど、なんとなく、もう少しだけ進んでおいたほうがいいような気がして、足を止めずに前へと踏み出した。

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2025年12月15日 21:00
2025年12月17日 21:00

九夏の桜 守智月 茶沙 @Sasha_7

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