第2話 ポンジスキームと闇の恋人
王来寺家で脅迫状が見つかった翌日、警察庁・捜査二課の宇佐美俊介は、上層部から特命を受けた。
報告は迅速に。 悪い知らせほど、早く届けるに越したことはない。
宇佐美はまっすぐ、上司・九我の部屋へ向かう。
ここ最近、九我の機嫌は悪くなかった。
この日も、雑誌をめくりながらソファにもたれている。
その隣で、先輩の石黒が同じ雑誌を覗き込んでいた。
机に近づいた宇佐美は、二人が読んでいる雑誌の表紙を見て、目を丸くする。
「……九我さん、料理なさるんですか?」
意外にも、それは主婦向けの料理雑誌だった。
「一人暮らしを始めたんだ」
九我が、ページの角に折り目をつけながら言う。
「僕、料理は嫌いじゃないです。でも……洗い物が苦手で。 あと、生ゴミの処理も。手が汚れるのが、好きじゃないんです」
宇佐美が言うと、九我はさらりと返した。
「俺は、両方好きだ」
今夜の献立でも考えているのだろうか。
穏やかな横顔に、宇佐美は少し驚いた。
「またまた、好感度上げちゃって」
石黒が笑いながら茶化す。
「そのうち『嫁にしたい警察官ランキング』に入りますよ」
「そうか」
九我もつられて笑う。
空気が和んだそのタイミングで、宇佐美は姿勢を正した。
「……僕、王来寺篤人君の身辺警護を命じられました。自宅に脅迫状が届いたそうです」
場の空気が変わった。
「管轄が違うだろ」
九我の声が低くなる。
「なぜ俺を通さず、おまえに直接話が来る」
「ごもっともです(……そうやって渋るからでしょう)」
「おまえが抜けたら、その間の代わりは誰が務める?」
(いくらでもいますよ)
それも、口には出さずにやり過ごした。
「向こうからのご指名だったんだろ」
石黒が助け舟を出した。
「『あの優しそうな刑事さんがいいわ』って。詐欺事件のとき、宇佐美があの家を担当したもんな」
王来寺美也子の内縁の夫・御影仁が起こした詐欺事件——
それは、昨年、九我たちが手がけた案件だった。
御影の手口は巧妙だった。
「確実に値上がりする」と謳って、アンティークコインへの投資話を持ちかける。
富裕層を相手に、名の知れた鑑定士の保証をちらつかせた。
市場価値のあるコインを少量だけ混ぜることで、信用を得る。
しかし、出資者には現物を渡さず、「厳重に保管する」と預かり証を発行。 最初は配当金を払い、「儲かる」と思わせていた。
だが、それは新たな出資者の金を使った『自転車操業』——いわゆるポンジ・スキームだった。
資金の流れが鈍ると、御影はさらなる宣伝に打って出る。
だが限界は近く、ついに捜査の網がかかった。
御影は金を持ち逃げし、姿を消した。
宇佐美たちが捕らえたのは、御影に雇われた構成員だけ。
主犯の御影仁はいまだに行方知れず。被害総額は一千億円にのぼる。
御影が富裕層から信頼を得られたのは——美也子の存在があったからだ。
旧家王来寺家の名が、信用を生んだ。
出資者の警戒心を、見事に解かせた。
だが美也子本人は、「名前を勝手に使われただけ」と主張。
そして不起訴。
上層部からの圧力もあったのだろう。
真相は、闇の中だ。
「あの家を探れば、御影の行方がつかめるかもしれません」
宇佐美の声に、石黒が渋い顔をする。
「あいつ、もう……消されてんじゃないか?」
「『黙示ノ会』とのつながりも、調べてみます」
宇佐美がその名前を出した瞬間、空気が変わった。
九我は時計に目をやり、雑誌を静かに閉じる。
「……帰る」
石黒も、軽く伸びをしてあくびをした。
「俺も、帰ろっと」
宇佐美は察する。
——それ以上は、踏み込むな。
御影の詐欺が宗教団体『黙示ノ会』の資金源だった可能性は高い。
だが捜査は中止された。
御影が勝手にやったこと、教団とは無関係——そういう形で幕引きされたのだ。
「何かつかんだら、すぐ報告します」
軽く頭を下げ、宇佐美は部屋をあとにした。
廊下を歩きながら、考える。
王来寺篤人——今回、警護を任された高校生。
その婚約者は、御影仁と王来寺美也子の娘だった。
宇佐美は、足を止めた。
(……彼女の名前は、なんと言ったか?)
娘は、幼い頃から美也子とは暮らしていなかった。
だが、一度だけ——美也子がふと、娘の名を口にしたことがある。
そのときの響きが、どうしても思い出せない。
舌の先まで出かかっているのに、霧のように掴めなかった。
***
霞ヶ関を出た九我正語は、途中で買い物を済ませ、新しく越したばかりのマンションへと戻った。
玄関のドアを開けると、パジャマ姿の秀一が静かに立っていた。
「おかえり」
細い指が伸び、正語の手から買い物袋をそっと受け取る。ふと足元を見ると、玄関にはテニスバッグが転がっていた。
「部活の帰りか?」
正語は秀一の髪に触れた。シャワーを浴びたばかりなのか、細いくせ毛がまだ湿り気を帯びている。
「オレ、電車嫌い」
わずかに顔をしかめる。
「混んでたろ」
絡むように指を滑らせ、そのまま後頭部を抱え込む。秀一は抵抗もせず、静かに身を預けてきた。
——もう、限界だった。
正語は買い物袋を奪い取り、その場に放り出した。冷蔵庫に入れるべきものがあったはずだが、今はどうでもいい。
華奢な身体を抱え上げ、そのままベッドへ向かった——。
***
人の温もりに触れるのは、どうしてこんなにも心地いいんだろう。
秀一はうっとりと目を閉じた。
指先が、唇が、壊れ物を扱うように優しく撫でていく。そのひとつひとつが心を蕩かし、陶酔の感覚を呼び起こす。
キスも好きだった。
「口、開けて」
低く囁かれる声に、素直に従う。
ゆっくりと舌が侵入し、口の奥をなぞっていく。
歯茎の裏を撫でられるとくすぐったくて、舌の奥に触れられるとゾワリと震える。それでも、このぬくもりに包まれている時間が、大好きだ。
その温もりと重みに、秀一は幸福を感じる。
いつまでも、こうしていたい——。
夕飯なんてどうでもいい。
——オレは今、幸せを食べているんだ。
亡くなった最強の霊媒師だった大叔母。
その魂が入り込んだ瞬間、封じられていた記憶が蘇った。
——「滅びの魔女」として恐れられた自分が、なぜ人の姿を求めるのか。
その理由も——。
それは、この魂を独占するためだった。
正語。
もう裏切らないで。
もし、今世でも不実を犯したなら——。
そのときは、おまえを無間地獄よりも深い闇へ、未来永劫閉じ込める。
——オレには、その力があるんだから。
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