継承の迷宮

こばゆん

第1話 プロローグ

 ときどき、喉に重い石を押しつけられたように息が詰まる。

 声を出そうとしても出ない。喉の奥がぎゅっと塞がってしまう。


 ――今も、そうだった。


「ご自分の意見を、お聞かせください、篤人様」

 葉月に促されても、篤人は返事ができなかった。

 ただ曖昧な笑みを浮かべ、祖母の方へそっと視線を向ける。

 八十を越えた祖母・静江は、背筋をぴんと伸ばしたまま目を伏せていた。


「世間の慣例に反する女系相続など、今すぐ撤廃すべきです。どうして篤人様ではいけないとおっしゃるのですか?」


 ――また始まった。この茶番はいつまで続くのだろう。

(葉月さん、そのセリフ、もう何度繰り返せば気が済むのですか)


***


 王来寺家。

 東京・JR線T駅から徒歩十分――ただし、それは「外門」までの話だ。

 広い庭園を突っ切り、石畳を渡り、鬱蒼と茂った樹々の間を抜けて、ようやく外門にたどり着く。

 手入れの行き届きすぎた庭は、生の匂いがしない。室内には澱んだ空気と重い沈黙ばかりが漂っていた。

 この家では代々、女が跡を継いできた。

 女ばかりが生まれ、男は短命か素行が悪く、後継にふさわしくないと排除されてきた。

 そんな中で生まれたのが篤人だった。

 妹でもいれば迷わず継がせただろうが、母は彼を産んですぐに若くして亡くなった。

 のちに、母の妹が生んだ娘との縁組が決まった。

 親族が口を挟めぬよう、亡き母とその妹が生前に交わした「子ども同士を結婚させる」という約束。

 相手はとびきりの美少女だったし、無邪気な笑顔は、この家で育った篤人にとって救いだった。


(あっちゃんと結婚したい)


 あの子は笑ってそう言ってくれた。

 しかし昨年、婚約者の父が「王来寺」の名を使った投資詐欺を起こし、状況は一変する。

 親族は激昂し、「婚約を解消しろ」と騒ぎ立て、自分の娘を篤人に嫁がせようと画策する者まで現れた。

 混乱の中、葉月が口火を切った。

「女系相続を撤廃しましょう。この家を継ぐのは篤人様です」

 冷たく、はっきりと。

「あんな事件を起こした人の娘と結婚など、あってはなりません。篤人様が可哀想です」

(本当はまだ、諦めていないのに)

「それに、そのお嬢さんの名前も伺っていませんし」

(え……忘れただけでは?)

 そのとき、沈黙していた静江が小さく口を開いた。

「――桐子」

 篤人は驚いて祖母を見た。心臓がどくりと跳ねる。

 禁忌のように、誰も口にしなかった名だ。

(違うよ、おばあちゃん。ボケたの? 誰それ……?)

 静江はそれ以上何も言わず、目を伏せたまま。

 名の響きだけが、澱んだ空気にいつまでも引っかかった。

「――まずは、その桐子さんにお会いしてから判断します」

 葉月がぴしゃりと言い、篤人を見た。「行きますよ」と目が告げている。

 篤人は立ち上がりつつ、祖母を振り返った。

 静江は目だけを向け、わずかに首を横に振った。

(――黙っていろ、ということか。あの子のことは誰にも言うな。名前も秘密にしろ、と)

 篤人はうなずいた。

 祖母の指先が、膝の上で小さく震えた。


***


 母屋とは別棟の離れに戻り、ようやく肩の力が抜けた。

 中学時代、バスケ練習用に建てた建物は、今では完全に自室になっている。

 ここには自分の空気がある。息がしやすい。

 いとこ同士の結婚に眉をひそめる者は多いし、婚約者の母――美也子は変わり者だった。

 葉月に名前まで隠していた。

 祖母は、なぜあの親子をそこまで守ろうとしたのか。

 俺も――。

 もし、あの子が困っているなら、なんとかしてあげたい……。

 篤人はベッドに寝転び、スマホを開いた。

 婚約者からの連絡は、やはりない。

(LINEを交換したの、俺からだったな。QR見せたら、すぐ察してくれた……)

 何度かやり取りしたが、結婚の話を出した瞬間から返信が途絶えた。

(……嫌われたのかもしれない)

 スマホをベッドに放り、シャワールームへ向かおうとしたとき、着信音が鳴った。

 心臓が反射的にはねる。しかし表示された名前は「ハル」。

『明日、みんなで飯食おうぜ。秀一が帰ってきたぞ』

「身内に不幸があったんだっけ?」

『アイドル復活で、今日は上級生のみなさん和やかでしたよ』

「テニス部って、目立つ奴多いよな」

『秀一なんて女の代用品だけどよ、多聞にコクった奴いんだぞ』

「……ウソ⁈ まさか、怜司?」

『なんで怜ちゃんなんだよ』

「いや、バスケ部は……異性交友も同性交友も厳しいんだ」

『修行僧かよ』

「三年抜けたら絶対、七番もらえるし」

『この間、怜ちゃんと合コン行った』

「……俺も呼んで」

『フィアンセはどうした。俺、あの子の顔、覚えてるぞ』

「……会ったの、かなり前じゃない?」

『ガキの頃、お前んちで水遊びしたろ。スク水だったじゃん。可愛かった』

「……」

 ノックの音がした。

「人が来た。切るよ」

『ん。明日な』

 篤人がドアを開けると、青ざめた葉月が立っていた。

 その後ろには小柄な弥生が、おずおずとこちらを見上げている。

「お休みのところ、すみません。非常事態です」

 葉月の声は、いつになく緊迫していた。

「篤人様に、お見せして」

 弥生が震える指で紙を差し出す。

「内門に貼られていたそうです」

 受け取った紙には、新聞や雑誌を切り抜いた古典的な脅迫文。

『篤人と美也子の娘との結婚を取りやめろ。さもなくば、王来寺の家に災いが起きるぞ』

 葉月と弥生が、意見を求めるようにじっと篤人を見つめていた。

 篤人は驚くより先に、思わず感心してしまう。

(……ほんとに切り貼り……今どきアプリで作れそうなのに。いや、手間かけてる分、本気なのかもしれない)

 喉の奥が、またきゅっと強く塞がった。

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