第3話 女の影と転入生

 東京・山手線のT駅から私鉄に乗り換えて十五分。

 自修院大学前で電車を降りる。

 南口には、片側二車線の大通りが大学までまっすぐ伸びている。いわゆる「大学通り」。

 通りの両サイドには、グルメサイトで高評価の洒落た店が軒を並べ、昼夜を問わず人通りが絶えなかった。

 だが、北口に出た途端、景色はがらりと変わる。

 駅前には静かな住宅街が広がり、その先には五メートルはあるコンクリート塀が立ちはだかっていた。

 黒ずんだ壁には、有刺鉄線が外界を拒むように張り巡らされている。

 そしてその向こうにあるのが、都内でも有数の名門男子校——自修院中等科・高等科だ。


 ***


 多聞忍は、校舎二階の窓から正門へと続く並木道をぼんやり眺めていた。


 並んでいるのは桜の木。

 だが今は八月。
青々と葉を茂らせているばかりで、花の気配はない。

 今年四月、この学校に入学したときも、すでに葉桜だった。

(来年に期待だな)

 そう思いながら視線を右へずらす。

 敷地を囲む高い壁が、校舎を影のように取り巻いていた。

 初めてこの学校を見たとき、多聞は「どこの矯正施設だよ」と内心でツッコんだものだ。

 しかし、それが生徒の脱走を防ぐためではなく、外部からの侵入を防ぐためだと知って納得した。

 ここの生徒たちは、多聞がかつて通っていた公立校の連中とはまるで違う。

 育ちがいいのか、この学校特有の空気のせいなのか——どこか洗練されていた。

 整い過ぎて、思わず「女子か⁉」とツッコみたくなるほどの男子もいる。

 入学して数ヶ月で、自分も多少は丸くなった気がする。

 人間は周囲の四人の平均になる、とはよく言ったものだ。

 そのとき、視界の端で黒いものが動いた。

 黒い日傘を差した女が、正門へ向かって駆けていく。

 まるで何かに追われているように。

 男子校で女性を見かけるのは珍しい。

 多聞は思わず窓から身を乗り出した。

 ——と、不意に肩へ腕が回される。

「何、見てんだ?」

 ハルこと高辻春琉彦。入学早々、隣の席になって以来、なにかとツルんでいる。

「女がいた」

 多聞がつぶやくと、ハルは吹き出した。

「おまえ、幻見んの早すぎ。まだ今年入ったばっかだろ? 俺は中等からいるけど、まだ正気だぞ」

 ハルは幼稚園から自修院に通う、生粋のエリートだ。

「行こうぜ」

 ハルに促されて、多聞は窓から離れた。

 最後に外を見る。 もう女の姿は消えていた。


 ***


「今朝の電車、混んでたよな? 昨日の車両故障の影響かな」

 ステップを踏むような軽やかな足取りで、ハルが階段を下りていく。
 夏休み中の校舎は静まり返り、響くのはハルの足音だけ。

「急に錆びたらしいもんな。怖くね?」

「……ああ」

 多聞も昨夜のニュースを見ていた。

 問題は遅延ではない。

 ——車両が、一瞬で錆びついた。

 前の駅を出たときには異常なし。次の駅に着く頃には鉄骨がボロボロに朽ちていた。

 ニュースでは「原因不明の老朽化」とされたが、ネットでは怪奇現象として拡散されている。

「子供だ」

 踊り場でハルが声を落とした。

「ん?」

 多聞が階段を降り切り、ハルの視線を追う。

 階段を上ってきたのは、バイオリンケースを抱えた小柄な生徒。

 百五十センチほど。大きな目に、幼い顔立ち。どう見ても小学生だが、着ているのは自分たちと同じ制服だった。

 ハルがジロジロ見ているせいか、少年は途中で立ち止まり、視線を伏せた。

「おい、態度悪いぞ」

 多聞は小声で言い、ハルの足を軽く蹴った。

「行こうぜ」

 階段を下りようとした、そのとき——

「……あの」

 震えた声が背中に届いた。

 多聞は振り返る。

 少年は明らかに緊張していた。

 可哀想に。多聞はやわらかく微笑んだ。

「俺たちは怖くないよ。どうした?」

「……職員室は、どこですか」

「ここ、高等科だぞ?」

 踊り場で腕を組んだまま、ハルが言う。

「中等科は、運動場の向こうだ」

 少年の顔がさらに青ざめる。声はかすれ、消え入りそうだった。

「……僕、高校生です……」

「……ごめんな」

 多聞は苦笑し、もう一度やさしく微笑む。

「職員室なら、この上だよ。転校してきたの? 俺たち一年だけど、君も?」

 少年はこくりとうなずいた。

「俺、多聞。こっちはハル。あいつのことは無視していいよ」

「——乾未央です」

 未央は小さく会釈すると、階段を駆け上がっていった。

 ハルとすれ違う瞬間は怯えたように一瞬身を縮めたが、その後は迷わず職員室の方向へ向かった。

「おい、行くぞ」

 多聞が声をかけると、ようやくハルが動いた。

「……あいつの顔、見たことある」

「前にここにいたのか?」

 ハルは真顔で多聞を見た。

「あいつ、篤人の婚約者だ」

 多聞は思わず目を剥いた。

 ハルはまじめそのものの表情で続ける。

「俺、あいつとガキの頃、水遊びしたことあんだよ。篤人も一緒でさ」

「へえ……」

 多聞が曖昧な相槌を打つと、ハルはぽつりと言った。

「よくある、アレだな」

「なにが?」

「女の子が男の格好して男子校に転校してくるってやつだよ」

 ハルは真剣だった。

「……バカか!」

 多聞は叫ぶ。

「そんなの、マンガだけだ!」

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