ステージ15:聖域の『音』

【ステージ14の結末より】

「……よく、ここまで、来られました。……もう、大丈夫ですよ」

その、温かい「音」に触れた瞬間。

玲の意識は、地獄の連戦(バトル・ラッシュ)の、本当の「終わり」を告げられ、深い、深い、眠りの中へと、落ちていった。

【目覚め】

意識が、水のせせらぎと共に、ゆっくりと浮上する。

次に感じたのは、嗅いだことのない、清浄な「お香」の香り。

カビと埃と硝煙(しょうえん)にまみれていたスロウタラムの空気とは、まるで別世界の、魂そのものが浄化されるような、深く、静かな匂いだった。

(……私……)

玲は、ゆっくりと目を開けた。

そこは、簡素だが、塵一つない、清潔な木造の部屋だった。

彼女が寝かされていたのは、硬い簡易ベッドではなく、陽光を吸ったような、温かい匂いのする、清潔な布団の上だった。

(……傷が……)

信じられないことが起きていた。

あれほど酷かった、脇腹の、ステュクスに焼かれた傷。カインが応急処置で縫合しただけの、化膿(かのう)しかけていたはずの傷が、今はもう、薄い皮膚が張り、かさぶたになりかけている。

ミカゲに斬られた肩、黒龍に打たれた内臓、シルバーウルフに撃たれた太腿……あれほど身体を苛(さいな)んでいた全ての激痛が、まるで薄霧のように、消え去っていた。

「……目が、覚められましたか」

その、鈴を転がすような、清らかな声に、玲はハッとして身を起こした。

そこに座っていたのは、あの時の尼僧――**来光 聖華(らいこう せいか)**だった。

彼女は、玲の汚れたタクティカルスーツを丁寧に畳みながら、静かに微笑んでいた。

「……あなたは……。ここは……」

「ここは『那智の村』。カレイドポリスの『システム』から切り離された、最後の聖域です」

聖華は、薬湯の入った湯呑みを、玲にそっと差し出した。

「……あなたの傷は、私が『マントラ(真言)』で癒しました。ですが、あなたの魂に刻まれた『傷(ノイズ)』は、あまりにも深すぎて……私には……」

聖華の瞳が、わずかに曇る。

「……あなたほど、強烈な『不協和音』を、たった一人で背負っている方を、私は、初めて見ました。……あなたは、一体、何と戦ってこられたのですか?」

玲は、答えられなかった。

フェイ、ミカゲ、黒龍、バーサーカー、ステュクス、シルバーウルフ、カラス、エコー……。

死線を潜り抜けた記憶が、フラッシュバックする。

目の前の、あまりにも清浄な存在に、あの地獄をどう説明すればいいのか、わからなかった。

「――聖華。そいつに、馴れ馴れしく話しかけるな」

その時、鋭い声が、障子の向こうから飛んできた。

音もなく、障子が開かれ、あの時の僧侶――**慈道 尊(じどう たける)**が、長巻(ながまき)を背負ったまま、冷たい瞳で玲を見下ろしていた。

「……尊……」

「お前が『癒した』から、この聖域の『結界』が、どれほど乱れたか、分かっているのか」

尊は、聖華を厳しく叱責すると、その射抜くような視線を、玲へと移した。

「……女。お前が持ち込んだ『穢れ(ノイズ)』の残響を嗅ぎつけ、今、この聖域の『外』まで、複数の『化物』が集まってきている」

「!」

玲の身体に、緊張が走る。

(……黒龍……カラス……そして、エコー!)

あの三つの勢力が、この「那智の村」の入り口まで、追ってきたのだ。

「お前の存在そのものが、この村にとっての『災厄』だ」

尊の手が、背中の長巻の柄にかかる。

「……傷が癒えたのなら、その『穢れ』と共に、即刻、立ち去れ」

「……待ってください、尊!」

聖華が、玲をかばうように、二人の間に割って入った。

「この方は、好きで『穢れ』を纏ったわけでは……!」

「甘い!」

尊が一喝する。

「我らの使命は、この聖域を守ること。外界の『ノイズ』に、情けをかけることではない!」

一触即発。

武人の「殺意」と、聖女の「慈愛」が、激しくぶつかり合う。

玲は、その二つの、あまりにも純粋で、強烈な「音」の板挟みになり、息を詰めた。

「――そこまでにせよ、二人とも」

その時。

凛とした、しかし、海の底のように深く、静かな「声」が、部屋全体を支配した。

声の主は、いつの間にか、部屋の入り口に立っていた。

年老いた、一人の僧侶。

だが、その佇まいは、カインの老獪(ろうかい)さとも、黒龍の威圧感とも違う、絶対的な「調和」そのものだった。

彼が、そこに「立っている」だけで、尊の「殺意」も、聖華の「慈愛」も、その「音」の中に、静かに吸い込まれていく。

「……住職……」

尊と聖華が、その場で、深く頭(こうべ)を垂れた。

住職――**空摩 理人(くうま りひと)**は、玲の前に、ゆっくりと座った。

その、深淵(しんえん)のような瞳が、玲の魂の奥底――渉の記憶も、父の遺志も、彼女の「調律者」としての核さえも、全てを見通すかのように、静かに見つめている。

「……よう、参られた、『調律者』よ」

住職の声が、玲のクオリアに、直接響く。

「……お前が、その身に宿す『音』は……実に、荒々しく、悲しく、そして……懐かしい『音』だ」

「……私の、音……?」

「お前は、自らの『力』の、本当の意味を知るために、ここに来た」

住職は、断言した。

「……外には、お前の『音』に引き寄せられた、三つの『不協和音』が集まっておる。……今のままのお前では、あの『影』の化物(エコー)には、決して勝てぬ」

「……!」

「……この村に残るか、あるいは、このまま、あの者共の『餌食』となるか」

住職は、玲に、選択を突きつけた。

玲は、自らの、包帯が巻かれた手を見つめた。

地獄の連戦(バトル・ラッシュ)の記憶が蘇る。

ステュクスの完璧な「調和」。

カラスの、精神を縛る「不協和音」。

そして、エコーの、全てを「無」に帰す、絶対的な「ノイズ」。

(……今の私では、勝てない)

カインの言葉が、蘇る。

(……なら、変わればいい)

玲は、顔を上げた。

その瞳には、もはや、一切の迷いはなかった。

「……教えてください」

玲は、住職に向かい、深く、深く、頭を下げた。

「……私に、本当の『調律』の仕方を。……あの『化物』たちを、超える『力』を!」

地獄の連戦(バトル・ラッシュ)は、終わった。

そして今、玲の、自らの「魂」と向き合う、本当の「戦い(修行)」が、始まろうとしていた。

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