ステージ2:虚構宮(グリッチ・ラビリンス)
【ステージ1の結末】
(……今しかない!)
玲は、最後の力を振り絞り、黒龍の足元に転がっていた消火器を、崩落とは逆方向の壁――制御室の、もう一つの小さな出口――に向かって投げつけた。
ガシャン!
重い消火器が、老朽化した点検口の扉を突き破る。その向こうには、地下鉄の職員用通路へと続く、かろうじて原型を留めた細いトンネルが口を開けていた。
「……チッ」
黒龍が、崩れ落ちてくる天井の巨大なコンクリートブロックを見上げ、舌打ちする。彼もまた、別の出口(メインルート)へと瞬時に身を翻した。互いに、今は目の前の「死(崩落)」から逃れることが最優先。宿敵との決着は、次なる戦場へと持ち越された。
「くっ……!」
玲は、突き破った点検口へと身体を滑り込ませる。その直後、凄まじい轟音と共に、玲が今までいた制御室が、上階から崩落してきた瓦礫の奔流に完全に飲み込まれた。
生と死の境界線。
玲は、粉塵と轟音の地獄から、文字通り這うようにして逃げ出した。
【バトル3 vs. 暴走する狂気(バーサーカー)】
(……弾は、残り8発)
玲は、最後の弾丸が込められたハンドガンを抜きながら、この絶望的な戦場で、どう生き残るかを思考の限界速度で回転させた。
満身創痍の身体。弾切れのサブマシンガン。そして、物理法則が歪んだ最悪の戦場(アリーナ)。
「ギィイイイイイイイイイイッ!!」
一体が、甲高い奇声を発した。
それを合図に、五体のバーサーカーが、玲に向かって一斉に突進を開始した。
一体が、波打つ床を、ありえない速度で滑るように突進してくる。
もう一体は、デジタルノイズの走る壁面を、まるで蜘蛛のように真横に走り、玲の側頭部を狙う。
さらにもう一体は、天井に張り付いたまま、玲の真上からその醜悪な巨体を落下させようとしていた。
三次元全てからの同時攻撃。
常人であれば、コンマ数秒で肉塊に変えられていたであろう絶望的な包囲網。
(……だが、お前たちは「獣」だ)
理性を失ったが故の、直線的な殺意。
玲の瞳が、極限の集中の中で、わずかに青白い光を帯びる。「調律者」のクオリアが、この歪んだ空間の「バグ」と、獣たちの単純な「音(殺意)」を正確に捉えていた。
パン! パン!
玲は、まず真上、天井から落下してくる個体に向かって二発発砲した。
銃弾は、その分厚い筋肉に阻まれ致命傷にはならない。だが、狙いはそこではなかった。
「音」と「衝撃」に驚いたバーサーカーが、空中で一瞬、体勢を崩す。
(……ここ!)
玲は、その落下地点から、紙一重で回避。
直後、凄まじい轟音と共に、バーサーカーが床に激突する。
その衝撃で、波打つアスファルトが、さらに歪んだ。
「グルルァァ!」
床を滑ってきた個体が、その巨体を玲に叩きつけようとする。
玲は、その突進を、古武術の「体捌き」で最小限の動きでかわす。
だが、その回避行動を読んでいたかのように、壁面を走っていた個体が、玲の背後へと回り込んでいた。
(挟まれた!)
二体のバーサーカーが、玲を中央に挟み、同時にその骨の刃(やいば)を振りかぶる。
絶体絶命。
(……あえて!)
玲は、この歪んだ空間の「重力」に、自らの身体を預けた。
彼女は、自らバランスを崩し、ありえない角度で横倒しになった噴水のオブジェに向かって倒れ込む。
二体のバーサーカーは、獲物(玲)を追って、その突進の軌道を変えられない。
ゴシャッ!
凄まじい衝突音。
玲を挟み撃ちにしようとした二体の怪物が、互いの突進の勢いを殺しきれず、正面から激突したのだ。
歪んだ骨の刃が、互いの肉体を深々と貫き、二体はもつれ合ったまま、青白いエネルギーを撒き散らして痙攣する。
「……残り、二体」
玲は、噴水から「上」へと流れ落ちる水を浴びながら、冷たく呟いた。
だが、脇腹の傷が、この異常な動きに耐えきれず、再び開いた。激痛が走り、視界が一瞬、赤く染まる。
「ガァアアアア!」
残った二体が、仲間の死(?)に激昂し、同時に襲いかかってくる。
玲は、ハンドガンを構え、そのうちの一体の濁った眼球を、正確に撃ち抜いた。
パン!
脳を破壊され、巨体が崩れ落ちる。
(……最後の一体!)
玲が、最後の一体(リーダー格)に銃口を向ける。
だが、その個体は、これまでの獣たちとは違っていた。
その動きは、他の個体よりも明らかに素早く、そして、狡猾だった。
リーダー格は、玲の射線を警戒し、デジタルノイズの走る壁の向こう側――一瞬だけ「城」の風景が映るバグった空間――に身を隠す。
(……まずい、弾が……!)
ハンドガンのマガジンが空になったことを、重さの変化で悟る。
玲は、銃を投げ捨てた。
静寂。
獣が、獲物を狩るための、一瞬の静寂。
玲は、目を閉じた。
脇腹が痛い。肩が熱い。内臓が軋む。
だが、彼女の「調律」は、この極限の消耗の中で、さらに研ぎ澄まされていく。
(……聴こえる)
壁の向こう側。
バーサーカーの、荒い呼吸音。
筋肉が収縮する、微かな音。
床を蹴るために、爪がアスファルトを引っ掻く、予備動作の音。
(――そこだ!)
玲が目を開いた瞬間。
リーダー格が、ノイズの壁を突き破り、玲の目の前に躍り出ていた。
その爪が、玲の心臓を狙って振り下ろされる。
だが、玲は、もうそこにはいなかった。
彼女は、バーサーカーの突進と「同時」に動いていた。いや、そのコンマ数秒「早く」動いていた。
相手の「音」を読み切り、その攻撃の軌道上から、最小限の動きで身体をずらす。
バーサーカーの爪は、空を切った。
その突進の勢いは、殺しきれない。
そして、その突進の先には、先程、玲が回避のために利用した、重力が歪む噴水のオブジェがあった。
「グル……!?」
バーサーカーが、初めて困惑の声を上げる。
だが、もう遅い。
その巨体は、自らの筋力と勢いに振り回され、重力のバグの中心――水が「上」へと流れ落ちる、歪みの中心点――へと、吸い込まれるように突っ込んでいった。
バキバキバキッ!
ありえない重力に捕らえられたバーサーカーの身体が、嫌な音を立ててねじ曲がり、骨が内側から肉を突き破り、やがて、ただの醜悪な肉塊へと変貌した。
「……はぁ……っ……はぁ……っ……」
戦いは、終わった。
玲は、その場に膝から崩れ落ちた。
一体一体は脅威ではなかった。だが、その「数」と「狂気」、そしてこの異常な「空間」が、彼女の精神と体力を、確実に限界まで削り取っていた。
(……渉……少し……疲れた……)
朦朧とする意識の中、彼女は瓦礫に背を預け、荒い息を繰り返す。
血の匂い。オゾンの匂い。そして、化学薬品の甘い匂い。
その時。
玲のクオリアが、今までの獣の「ノイズ」とは比較にならない、研ぎ澄まされた「殺意」の音を捉えた。
**キィン、**と。
まるで空間そのものが、完璧な刃物で切り裂かれたかのような、冷たい音が響いた。
広場の闇の奥。
血の匂いと混乱の中心に、一人の男が、音もなく立っていた。
「……見事なものだな。キメラプロジェクトの失敗作とはいえ、あのバーサーカー共を、その消耗した身体で無力化するとは」
その声は、完璧に調律された楽器のように、冷たく、そして硬質だった。
【バトル4 vs. 完璧なる番犬(ステュクス)】
(……渉……少し……疲れた……)
朦朧とする意識の中、玲は瓦礫に背を預け、荒い息を繰り返す。
血の匂い。オゾンの匂い。そして、化学薬品の甘い匂い。
その時。
玲のクオリアが、今までの獣の「ノイズ」とは比較にならない、研ぎ澄まされた「殺意」の音を捉えた。
**キィン、**と。
まるで空間そのものが、完璧な刃物で切り裂かれたかのような、冷たい音が響いた。
広場の闇の奥。
血の匂いと混乱の中心に、一人の男が、音もなく立っていた。
「……見事なものだな。キメラプロジェクトの失敗作とはいえ、あのバーサーカー共を、その消耗した身体で無力化するとは」
その声は、完璧に調律された楽器のように、冷たく、そして硬質だった。
黒い戦闘服に身を包んだ男――ステュクスは、瓦礫の山を、まるで存在しないかのように静かに歩いてくる。その姿は、この混沌とした「虚構宮」の中で、唯一絶対の「秩序」を体現しているかのようだった。
「ウロボロスの番犬……」
玲は、乾いた唇を舐め、最後の力を振り絞って立ち上がった。もはや武器は、腰のナイフ一本のみ。
「秩序を乱す『バグ』は修正されねばならない」
ステュクスの手の中で、音もなく抜き放たれた刃が、非常灯の赤い光を吸い込んで妖しく煌めいた。物理的な刃ではない。超高速で振動するエネルギーの奔流が刃の形を成した「高周波ブレード」。
「その歪んだ『調律』ごと、お前を無に帰す」
次の瞬間、ステュクスの姿が消えた。
否、玲の「調律」による知覚さえも振り切るほどの速度で、踏み込んできた。
(……黒龍の踏み込みより、速い――!?)
玲は、本能だけで後方へ跳んだ。
シュンッ!
直前まで彼女がいた空間を、高周波ブレードが音もなく切り裂いた。波打っていたはずのアスファルトが、まるで熱したナイフで切られたバターのように、何の抵抗もなく両断される。その切断面は、高熱で赤く溶けていた。
「ほう……。今のを避けるか」
ステュクスの感嘆の声が、玲の背後から聞こえた。
(背後!?)
玲が振り返る間もなく、第二の斬撃が迫る。
ステュクスは、玲が跳んだ先の着地点を完璧に予測し、既に回り込んでいたのだ。
玲は、この歪んだ空間の、ありえない角度で傾いたビルの壁面を駆け上がる。
だが、ステュクスもまた、重力を無視するようにその壁を駆け上がり、玲を追う。
ガラスの破片が、二人の動きに合わせて、低重力のようにゆっくりと宙を舞う。
壮絶な一騎打ち。
ステュクスの剣技は、玲の予測を遥かに超えていた。彼の動きには、一切の無駄がない。最短距離を、最高速で、最大の殺意をもって駆け抜ける。完璧に計算され尽くした、AIの最適解のような芸術的なまでの殺人術。
(……読めない!)
玲は、防戦一方だった。
黒龍の「意拳」には、妹への想いという「揺らぎ(ノイズ)」があった。
だが、ステュクスの「音」は違う。
それは、一点の曇りもない、完璧なハーモニー。彼の精神(クオリア)と、その手にするブレードが、完全に同調している。
彼の心には、迷いも、怒りも、喜びさえもない。ただ、「任務を遂行する」という一点のみに調律された、絶対的な「無」の境地。
「調律」は、相手の「不協和音(ノイズ)」を聴き取り、それを乱す力。
だが、相手が完璧な「調和」そのものだった場合、それはあまりにも無力だった。
高周波ブレードが空を切るたびに、玲の頬を、腕を、熱い衝撃波が掠めていく。
脇腹の傷が開いた。左肩の熱が、全身に回っていく。体力の限界が近い。
(……このままでは、ジリ貧だ……)
(……完璧すぎる。だからこそ……!)
玲は、賭けに出た。
完璧な「調和」には、「不協和音」を。
AIの最適解には、人間の「バグ」を。
ステュクスが、とどめの一撃として、玲の心臓を狙い、真っ直ぐに踏み込んできた。
玲は、それを避けなかった。
彼女は、自らの魂の音――
渉を失った悲しみ。
スタークへの燃えるような怒り。
黒龍への対抗心。
バーサーカーたちへの憐れみ。
そして、この理不尽な世界で、それでも生きたいと叫ぶ、泥臭い「生」への渇望――
その全てを、一つの制御不能な「不協和音(ノイズ)」として解放し、ステュクスの完璧な精神(クオリア)へと、真正面から叩きつけたのだ。
(聴け、これが、私の『音』だ!!)
『なっ……!?』
ステュクスの完璧に制御された「無」の世界に、玲の荒々しく、矛盾だらけで、不合理で、それ故にどうしようもなく人間的な「感情」の奔流が、暴力的なノイズとなって流れ込んだ。
ほんの一瞬。
コンマ数ミリ。
ステュクスの完璧な剣筋が、その「ノイズ」に動揺し、乱れた。
その、神でさえ見逃すであろう一瞬の「隙」を、玲は見逃さなかった。
玲は、ブレードの軌道を最小限の動きで逸らし、その懐へと飛び込む。
そして、最後の力を振り絞り、弾切れのハンドガンのグリップを、ステュクスの鳩尾(みぞおち)――彼の完璧な「調和」の中心点――へと、渾身の力で叩き込んだ。
「ぐっ……!」
ステュクスの身体が、「く」の字に折れ曲がり、その完璧な体勢が、初めて崩れた。
彼の瞳には、信じられないものを見たかのような、驚愕の色が浮かんでいた。
「……なぜだ……。なぜ、俺の完璧な『剣』が……お前のような『紛い物(ノイズ)』に……!」
「……あなたの剣には……『魂』がなかった。それだけよ……」
玲は、そう言い放った。
だが、その代償はあまりにも大きかった。
カウンターを叩き込んだ玲の身体もまた、ステュクスのブレードが放つ高熱のオーラによって、脇腹の傷をさらに深く焼かれていた。
シュンッ!
ステュクスは、屈辱に顔を歪めながらも、冷静に後方へ跳躍し、距離を取った。
彼は、己の胴を押さえ、信じられない、という表情で玲を睨みつけた。
「……許さん……。この屈辱、必ず晴らす……」
彼は、己の「完璧さ」が「不協和音」に敗れたという事実を受け入れきれないまま、確実に玲を仕留めるため、そして自らの「調和」を立て直すため、闇の中へと姿を消した。
「……待……」
玲は、追うことさえできなかった。
張り詰めていた緊張の糸が、プツリと切れる。
全身の骨が軋み、焼けるような痛みが全身を駆け巡る。
玲は、その場に崩れ落ちるように倒れ込んだ。
(……渉……ここまで、みたい……)
血の匂いとオゾンの匂いの中で、玲の意識は、冷たく、そして深い闇の中へと、急速に沈んでいった。
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