第6話 —初めてのキッチン大騒動

タケルは髪を拭き終えると、まだ背筋をピンと伸ばしたままテーブルの椅子に座った。

視線はしっかり前を向いているのに、ときどき芽衣のほうへそっと向く。

まるで、小さなボディーガード。


——それが彼なりの「守り方」だった。


一方の春海はというと、やたら元気で、そして自分がこれから招く“料理の惨劇”にまったく気づいていなかった。


「よーし! 晩ごはん! 何が食べたい?」


タケルは迷いなく答える。


「……目玉焼き。」


「目玉焼きだけ?」


「お母さんが作ってくれた。」


春海の手が一瞬止まる。

空気が少しだけ、ほんの少しだけ重くなる。

けれど彼女はすぐに微笑み、胸を張った。


「じゃあ今日は、世界一おいしい目玉焼きにしよう!」


泉は額に手を当ててため息をつく。


「……ああ、始まっちゃった。」


「なにその反応!」

春海はスプーンを武器のように構えた。

「私はシェフよ? シェフ!」


泉は腕を組み、冷静に刺す。


「先週、あんたインスタント麺焦がしたよね。」


「だって! 水が早く沸きすぎたの! 反則でしょ!」


芽衣は「きゃははっ!」と大爆笑。

タケルはその声に「静かにしろ」というような目を向けたが……

その目尻は、少しだけ柔らかかった。


春海は大きすぎる花柄エプロンを結び——

その半分が体を飲み込みそうだったが——

意気揚々と宣言する。


「作戦名:目玉焼き! スタート!」


彼女が火をつけた瞬間——


ゴオッッ!!


炎が必要以上に高く上がる。


「ひっ!? なにこれ!? このコンロ私に恨みでもある!?」


「違うよ、はる。」

泉はトマトを落ち着いて切りながら言う。

「そのコンロ、あんたから身を守ってるだけ。」


「ひどっ!!」


春海はフライパンを置き、芽衣はテーブルに顔を乗せ、

足をバタバタ揺らしながら目を輝かせている。


「いい匂い〜」


春海はデレデレしてしまう。


「ふふふ……では調味料その1! 幸せと脂肪〜!」


泉がむせる。


「……バターって言いなよ。」


「バターは固体の幸せ!」


フライパンにドサッと投入。


ジュワァァァァァ!!


あまりの音にタケルが椅子ごと跳ねる。


泉は眉を寄せる。


「ねえ春海……さすがに入れすぎじゃない?」


「え? そんなのある?」


「あるよ。滝みたいになってる。」


春海は聞こえないふりをして卵を手に取った。


トン。

……割れない。


トン。

……まだ割れない。


「寒すぎて卵まで凍ってるよ〜あはは……」


三度目。


バキッ。


卵が手の中で爆発し、指の間から勢いよくこぼれ落ちる。


「つめたっ!? つめたっ!! ひゃぁぁ!!」


泉はそっと目を閉じた。


「……やっぱり。台所はあんたの縄張りなんだね。狩り方が雑だけど。」


タケルは絶望と笑いの狭間みたいな顔をしている。

芽衣は大喜びだ。


「もういっかいやって!!」


「ダメだ!!」

と泉とタケルが完全シンクロで叫んだ。


四回目の挑戦。

三つの殻がフライパンにダイブし、春海の悲鳴「前髪ィィ!!」が響いたその後……


奇跡は起きた。


——完璧な目玉焼き。


泉が目を見開く。


「ちょ、ちょっと待って……これ……うまそう……?」


「でしょおお!!!」

春海はヘラを掲げた。

「私は信じてた! 私の目玉焼きを!!」


タケルは無言でじっとその卵を見る。

褒めるでもない、けれどどこか…認めたような。


春海は調子に乗ってさらに二つ作った。

当然、またアクシデントが続出したが——


味は。


奇跡的に。


おいしかった。


春海は温かいご飯の上に目玉焼きを乗せ、どや顔で差し出す。


「じゃじゃーん! 宇宙一の目玉焼き丼!!」


芽衣は手を合わせて叫ぶ。


「いただきますっ!!」


タケルは静かに食べ始め、

ひと口、またひと口……さらにもうひと口。


泉はこっそり囁く。


「はる……あの子、食べるの早い。」


春海は微笑んだ。


「うん……見てた。」


芽衣は全身で幸せを表現していた。

足はぶらぶら、顔はにこにこ。


「おいしすぎる〜〜!!」


そして——


タケルはようやく、小さく言った。


「……うまい。」


その二文字は、彼にとっては作文レベルの長文だった。


春海の胸がキュッとあたたかくなる。


「でしょ〜!? 世界一でしょ〜!?」


泉も芽衣も笑い、

タケルも……

ほんの、ほんの少しだけ口元が緩んだ。


春海だけが、それに気づいた。


——あ、この子……やっと少し安心したんだ。


食器を片付けたあと、芽衣が泉と歯を磨きに行くと、

タケルはゆっくりフォークを置いた。


「……なんで、こんなことするの。」


春海は皿を洗いながら振り返る。


「こんなことって?」


「これ。」

タケルは少し視線を落とし、

食事、家、笑っている妹……すべてを指すように手を動かした。

「お前……俺たちのこと、知らないだろ。」


泉は静かに立ち止まり、聞こえないふりをして耳を澄ます。

芽衣は聞こえていない。


風の音すら止まったような空気の中。


春海は、ゆっくりと笑った。


やさしくて、あったかくて、人を包むような笑顔。


「だって……寒いのって、つらいから。」


前髪を整えながら続ける。


「世界って、けっこう冷たいでしょ?

だからね……

誰かくらいは、毛布になってあげないと。」


タケルはそっぽを向いた。

けれどその瞳には、かすかに光が宿る。


——ありがとう。


声にならないその言葉が、湯気みたいにふわっと浮かぶ。


こうしてこの夜。

煙と笑い声とキッチンの大混乱の中で——


春海の「家」は生まれた。


完璧じゃなくても。

片付いていなくても。

静かじゃなくても。


あたたかくて、

にぎやかで、

生きている場所。


それで十分だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る