第5話 — お風呂と小さな奇跡
夕方の風は薪の匂いを運び、冬の冷たさが指先にじんと染みた。
空は薄いオレンジと紫に溶け、何かが始まる前の静けさのように見える。
春海は、両手いっぱいの買い物袋を抱えながら、肩で玄関の扉を押した。
「いずみーー!! 開けてぇぇ! 手が凍って落ちそう! 指紋なくなった!!」
ギィィ…と、ホラー映画のような音を立ててドアが開く。
出てきた泉は、寝癖のままの髪に古いパーカー、おまけに“冷蔵庫でゴキブリ見つけた人”みたいな顔をしていた。
「はる……」
泉は春海の後ろを指差し、目を丸くした。
「……ねえ。まさかとは思うけど……市場で子ども二人、拾ってきた?」
春海は買い物袋を足で押し入れながら、慌てて否定する。
「拾ってない!! ただ……寒かったの! だからちょっとだけ家に……!」
泉は腕を組んだ。
「次はなに? 町内会? 市場の全員? 駅員さんまで連れてくるの?」
「シャワーに入れられる人数までかな……」
ゆっくりと、春海のコートの裾を握ったのは、小さな女の子だった。
涙で頬が濡れ、夕日のような赤い髪は、少し乱れていた。
泉は思わずつぶやく。
「えっ……なにこの子……かわいすぎる……人形じゃん……」
その後ろに立つ少年は正反対だった。
眉間に皺を寄せ、肩は緊張で固まり、まるで誰も信用していないような目つき。
けれど、その視線の先にあるのは小さな妹ただ一人。
冬そのものの少年。
夏そのものの女の子。
そして——彼らを連れてきた春海は完全に“台風”。
「お家……きれい……」
と、少女——芽衣が呟く。
春海は吹き出した。
「きれいじゃないよ〜。散らかってるだけ。でも……あったかくはできるよ!」
泉は鼻で笑った。
「その“散らかり”に、さっき私つまずいたけどね」
春海は両手を叩く。
「よし! まずはお風呂!」
少年——タケルは目を見開く。
「お風呂!? いい!! 俺たち……きれいだから!」
泉がすかさずツッコむ。
「髪の毛、ほぼ生き物だけどね。しゃべり出したら私逃げるから」
「必要ない!!」
タケルは腕を組んでそっぽを向く。
しかし、その時。
芽衣が春海の服をきゅっと掴んだ。
「……あったかいお湯……ほんとにあるの……?」
声があまりに小さくて、春海の胸がぎゅっと締まる。
「あるよ。ぽかぽかの。天国みたいなやつ。入ってみる?」
芽衣はこくんとうなずいた。
—
浴室にお湯が流れ出すと、芽衣は笑った。
「ふわふわ……雲みたい!」
「いい匂いもするでしょう?」
春海は優しく髪を洗いながら言う。
「疲れ、全部流してくれるよ」
小さな肩に触れると、その細さに胸が痛んだ。
「お母さんがね……お風呂は“心も洗える”って言ってた」
「ほんと……?」
芽衣が見上げる。
「足りなかったら——もう一回入ればいいの」
芽衣は幸せそうに笑った。
タケルの番になると、彼はしばらく浴室の前で固まっていた。
湯気、温かい水、曇った鏡を見つめ、突然ぽつりと呟く。
「……これ……毎日あるのか」
廊下から春海が答える。
「うん、毎日。あなた達も、これからはね」
タケルは返事をしなかったが、わずかに肩の力が抜けた。
芽衣は大きなタオルにくるまれて出てきた。
「かわいい〜!!」
春海は髪を三つ編みにし、
芽衣は「これ、しあわせの三つ編みだね!」と言って笑った。
タケルが出てくると、春海はすかさずタオルを投げる。
「ほら! ちゃんと拭いて! びしょびしょのまま歩かない!」
「……うるさい」
とタケル。
春海は胸を張った。
「ありがとう、よく言われる!」
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