第4章 — 世界でいちばん不思議な出会い
引っ越し2日目にして、ようやく晴美の家が「実際に人が住む家」らしくなってきた。
丘の向こうへと沈んでいく夕日は、空を柔らかな橙色に染めながら、静かに一日の終わりを告げている。
そんな中、春海は胸の前で拳を握った。
――よし。
今日はこの町での初めての“大仕事”。
食料の買い出し。
くしゃっと折れたメモをポケットから取り出す。
「お米、牛乳、醤油、パン、いずみ用のお菓子……っと」
引っ越しの疲れがまだ残る腰をさすりつつも、春海はどこかウキウキしていた。
家のすぐ隣の通りに、小さな八百屋兼雑貨店がある。
店先には新鮮な野菜がきれいに並び、入口にはチリンと鳴る小さなベル。
――アニメでしか見たことないやつ……!
春海は目を細め、感動を噛みしめた。
「はぁ……私、本当にスローライフしてる……」
いずみもいない。
誰も彼女の家事の災害レベルを指摘してこない。
春海はひそかに“ちゃんとした大人”のふりを楽しんでいた。
かごを取って、鼻歌まじりに店内を歩く。
「シャンプー……石けん……タオル……って高っ!? タオルってこんな値段したっけ!? 高級品!?」
周りのお客さんが、春海を横目で見ながら小さく笑っている。
春海は慌てて咳払いした。
「ち、ちっちゃい町って、みんなの視線があったかいけど……刺さる……」
お菓子売り場に足を向けると、ピンクと赤の箱が整然と並んでいる。
「ポッキー……これ買わないと、いずみに家から追い出される」
三箱つかみ取った、その瞬間。
コツン。
小さな衝撃が足首に当たった。
春海は箱を落としそうになり、悲鳴を上げた。
「いったぁ!! 敵!? 足元を!?」
しかし、攻撃ではなかった。
それは――小さな女の子だった。
ぐしゃぐしゃの赤茶色の三つ編み。
涙で濡れた頬。
そして、世界の終わりを迎えたような顔で、春海の足にしがみついている。
「えっ、えぇっと!? ちょ、ちょっと待ってね!? どうしたの……!?」
春海は慌ててしゃがむ。
バランスを崩しそうになりながら、必死で少女の背中をさすった。
少女は泣きながら、春海のスカートをぎゅっと握りしめている。
「ね、ねえ……君、なんて名前……?」
「……め、メイ……」
「メイちゃん。わたし、春海っていうんだよ。ほら、ポッキー……食べる?」
魔法の薬のように箱を差し出すと、小さな手がそっと伸び、一本をつまんだ。
泣き声が少し静かになる。
その時だった。
低い声が店内に響いた。
「メイ。走るなって言っただろ」
春海が顔を上げると、少年が歩いてきた。
十一歳か十二歳くらい。
表情は固く、警戒心がにじむ瞳。
土で少し汚れた服が、どこか胸を痛くさせた。
少年はメイの手首をそっと、しかし強く握った。
「離れろ」
春海は慌てて手を振った。
「ちょ、ちょっと待って! メイちゃん、すごく怖がってて……」
「助けはいらない」
少年は冷たく言う。
「行くぞ」
しかし、メイは春海のスカートをさらに強くつかんだ。
まるで離れたくないと言うように。
春海は小声でつぶやいた。
「えっと……多分、私のこと気に入ってくれた……?」
少年が眉をひそめる。
「……また哀れみか?」
その時だ。
ずかずかと足音を立てて、店のスタッフらしき年配の女性が近づいてきた。
「また来たの? 困るんだよ、ほんとに!」
腕を組んで眉を寄せる。
「えっ……この子たちのこと、知ってるんですか?」
「知ってるさ。母親がいなくなってから、町中をうろついてるんだよ。変な騒ぎばっかり起こして……関わらないほうがいいよ」
春海は瞬きした。
一回。
二回。
三回。
理解が追いつかないまま、胸が熱くなる。
春海は少年と、そしてメイを見た。
――どうしてこんな小さな子たちが、こんな扱いされてるの?
「……“まともな人間”じゃない、って意味ですか?」
春海は静かに聞き返した。
女性はむっとして顔をそむけた。
「あなた、よそ者だから分からないだろうけど――」
「だからこそ丁寧に教えてほしかったんですけどね。
あいにく、丁寧さゼロです」
春海がにっこり笑うと、女性は舌打ちして去っていった。
少女と少年だけが残された。
春海はゆっくり膝をつき、二人の目線に合わせる。
――この子たち……もしかして、ずっとひとりで……?
心臓がきゅっと痛んだ。
「ねえ。お腹……すいてる?」
少年はそっぽを向く。
「だから、助けはいらな――」
「よし。決めた!」
春海はパンッと手を叩いた。
「ご飯、食べに行こ!」
「……は?」
「うち近いし! 広いし! ご飯いっぱいあるし!」
メイがそっと兄の袖を引っ張る。
「たける……あったかいごはん……」
少年の肩がわずかに揺れた。
「……一食だけだ。終わったらすぐ帰る」
春海の笑顔は、冬を溶かすくらい明るかった。
「了解! ではこちらへ、どうぞ〜!」
買い物袋を片手に、春海はメイの小さな手を握った。
たけるは一歩うしろからついてくる。
固い表情の奥に、ほんの小さな疑問が灯ったように。
――どうしてこの人は、こんなに迷いなく手を伸ばしてくるんだろう。
春海はまだ知らない。
たった今、自分の運命を大きく変えたことを。
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