第2話:「クラシックが死んだ日」
1999年8月17日、午後4時。
世紀末まで、あと136日。
放課後の音楽室から、ピアノの音色が漏れていた。
最初にユイが廊下で足を止めた。ポスターを貼るために音楽棟を巡回していたミオとレイナも、その音に引き寄せられる。
扉の隙間から室内を覗くと——
一人の少女がピアノの前に座っていた。
肩までの黒髪。華奢な身体。背筋がピンと伸びている。その指が鍵盤を撫でると、音符が生まれる。完璧な音に一同は圧倒され、
言葉も出ない。
ショパン「幻想即興曲」。
超絶技巧を要する名曲が、淀みなく奏でられていく。
でも——
ユイは感じた。何かが足りない。
音は完璧だ。リズムも正確だ。
——そこに「心」が見えない。まるで精巧に作られた機械が演奏しているような、冷たさがあった。
曲が終わる。
少女は手を鍵盤から離し、深く息を吐いた。その横顔に——疲労と、何か別の感情が浮かんでいた。
諦め、の表情だろうか。
それとも——
「すごい……」
ミオが小さく呟いた。
その声に、気がついた少女がこちらを振り向いた。
「あ……」
少女は立ち上がり、慌てて楽譜を閉じた。
「ごめんなさい、勝手に使って……」
「いえいえ! 全然大丈夫だよ!」
ミオが扉を開けて入っていく。ユイとレイナも後に続いた。
「あなた、1年生?」
レイナが尋ねると、少女は小さく頷いた。
「はい……1年A組の、
その声は、ピアノの音色と同じように——整っているが、どこか冷たさが感じられた。
まるで他人を拒絶するような。
「水瀬……さん。今の演奏、すごく上手だったよ」
ユイが言うと、カノンは首を横に振った。
「いえ、全然です。まだまだ未熟で……」
「未熟? あんなに完璧だったのに?」
ミオが目を丸くする。
「完璧じゃないんです」
カノンの声に、初めて感情が滲んだ。
「音は出せます。リズムも取れます。でも——それだけなんです。私の演奏には、何もない」
その言葉に、三人は黙り込んだ。
カノンは再びピアノの前に座った。
「母は元プロのピアニストで、私に後を継がせたいと昔から思っています。3歳からピアノを習って、コンクールにも出て、それなりの成績も残しました」
カノンの指が、鍵盤を撫でる。音は出さない。
「でも——私、本当はクラシックが好きじゃないんです」
予想外の告白に、ユイは思わず息を呑んだ。
「好きじゃない、って……?」
「いえ、正確には——クラシックの『やり方』が、好きじゃないんです」
カノンは立ち上がり、窓の外を見た。
「楽譜通りに弾く。先生の指示通りに弾く。完璧を目指す。間違えてはいけない。感情を出しすぎてはいけない——」
その声は、静かな怒りを含んでいた。
「私、自由に弾きたいんです。楽譜を無視して、自分の好きなように。間違えてもいいから、心から音楽を楽しみたい」
カノンは顔を上げて三人を見た。
「J-POPみたいに。自由で、明るくて、楽しい音楽を——」
それまで陰っていた瞳に、初めて力強い光が宿るのをユイは見逃さなかった。
それは隣にいるレイナも同じだった。
レイナがポケットから、手作りの勧誘チラシを取り出す。
「水瀬さん。よかったら、これ読んでみて——」
カノンはチラシを受け取り、目を通した。
『軽音楽部 部員募集!
1999年12月31日 ミレニアムロックフェス出場を目指す!
世紀末を、私たちの音楽で彩ろう!
初心者大歓迎!』
「軽音楽部……」
「私たち、今部員を募集してるの。あと二人必要で」
レイナが畳みかけるように言葉を続ける。
「あなたみたいなピアノが弾ける人がいたら、キーボード担当として迎え入れたいの——」
「でも、私、クラシックしか……」
「それでいいの」
思わずユイが口を挟んだ。
「クラシックの技術があれば、キーボードなんてすぐに弾けるようになるよ。それに——」
ユイはカノンの目をじっと見つめた。
「水瀬さんが求めてる『自由』、軽音部にはあると思う」
カノンの手が、チラシを握りしめた。
「でも……母が許すはずがない」
「内緒でやればいいじゃん!」
ミオが明るく言い放った。
「っていうか、自分の人生なんだから、自分で決めてもよくない?」
「自分で……決める?」
カノンは独り言のように呟いた。
その言葉を、これまで一度も考えたことがなかったかのように。
「……少しだけ、考えさせてください」
カノンはチラシを丁寧に折りたたんだ。
「ありがとうございます。連絡先、教えてもらえますか?」
三人が音楽室を出た後、カノンは一人、ピアノの前に座り直した。
シワを伸ばしながらチラシを広げ、じっと見つめる。
1999年12月31日。
世紀末。
ミレニアムロックフェス。
そこに自分が立っている姿を——カノンはまったく想像できなかった。
カノンは鍵盤に指を置き、適当に音を鳴らしてみた。
楽譜もない。決まりもない。ただ思うままに。
不協和音が生まれる。リズムもバラバラ。音楽理論から見れば、めちゃくちゃだ。
でも——
楽しかった。
こんなに楽しいと思ったのは、いつ以来だろう。
カノンは、チラシをカバンの奥深くにしまい込んだ。
母に見つからないように。
翌日、昼休み。
ユイとミオは屋上で簡単なセッションをしていた。
「昨日の子、どう思う?」
ミオがベースを弾きながら尋ねた。
「水瀬さん? すごく上手だったよね」
「うん。でも、何か……悲しそうだった」
ミオの言葉に、ユイは頷いた。
「好きじゃない音楽を、続けなきゃいけないのって、辛いだろうね」
「でもさ」
ミオは演奏を止めた。
「私たちと同じじゃない?」
「え?」
「ユイは、歌が好きなのに人前で歌えない。水瀬さんは、音楽が好きなのに自由に弾けない」
ミオは空を見上げた。
「みんな、何かに縛られてるんだよね」
その言葉が、ユイの胸に刺さった。
確かに——
自分も、1997年に縛られている。
あの失敗に、今も囚われている。
「でもさ」
ミオが笑顔を見せた。
「1999年って、そういうの全部ぶっ壊す年な気がしない? 世紀末だよ? 20世紀が終わるんだよ?」
「うん……」
「だから、水瀬さんも、きっと変われるって。私、信じてる」
ミオはベースを構え直した。
「さ、練習再開!」
◇
その夜、カノンは自室の机で宿題をしていた。
参考書、ノート、シャープペンシル——整然と並べられた文房具。
部屋の隅には、グランドピアノ。YAMAHA C3。定価200万円を超える高級品。
母親が、カノンの5歳の誕生日に買い与えたもの。
カノンはピアノを見つめた。
あれから何年、このピアノを弾いてきただろう。
何時間、練習してきただろう。
でも——楽しいと思ったことは、ほとんどなかった。
ノックの音。
「カノン、入るわよ」
母親が扉を開けて入ってきた。和服を着た、背筋の伸びた女性。元ピアニストの威厳が、今も漂っている。
「明日、ピアノの先生のところに行く時間、忘れてないわよね」
「はい、覚えています」
「来月のコンクール、大事だからね。練習、手を抜かないように」
「はい」
母親は部屋を見回した。
「最近、学校での様子はどう?」
「特に変わりありません」
「そう。友達はできた?」
「……少しずつ」
嘘だった。カノンには、友達と呼べる人間は一人もいなかった。
ピアノの練習で忙しく、クラスメイトと遊ぶ時間もない。昼休みも音楽室でピアノを弾いている。
カノンは孤独だった。
でも——それが当たり前だと思っていた。
「そう。でも、あまり遊びすぎないように。あなたはピアニストになるんだから」
「……はい」
母親が去った後、カノンはカバンから、あのポスターを取り出した。
『軽音楽部 部員募集!』
その文字を、何度も読み返す。
自由な音楽。
楽しい音楽。
仲間と作る音楽。
カノンは——決断できなかった。
母親を裏切ることが、怖かった。
◇
1999年8月19日、放課後。
世紀末まで、あと134日。
軽音楽部の部室に、三人が集まっていた。
「水瀬さんから、まだ連絡ないね」
ミオが残念そうに言う。
「そうね……」
レイナも溜息をついた。
「無理もないわ。クラシックの世界って、すごく保守的だから。親の期待もあるだろうし」
「でも……」
ユイが口を挟んだ。
「水瀬さん、すごく辛そうだった。自由に弾きたいって、本気で思ってた」
「うん、私もそう思った」
ミオが頷く。
「だから、もう一回誘ってみない?」
「でも、迷惑じゃない?」
「大丈夫だって! っていうか、後悔させたくないじゃん」
ミオは立ち上がった。
「1999年って、二度と来ないんだよ? この年に、何かに挑戦しないって、絶対後悔すると思う」
その言葉に、ユイは自分自身を重ねた。
もし自分が、軽音部に入らなかったら——
今頃、どうしていただろう。
きっと、一生後悔していた。
「じゃあ、明日の昼休み、音楽室に行ってみよう」
レイナが提案した。
「三人で、もう一度話してみましょう」
◇
翌日、昼休み。
三人は音楽室に向かった。
扉の隙間から、またピアノの音色が聞こえてくる。
でも——今日の演奏は、昨日と違っていた。
何度も同じフレーズを繰り返し、途中で止まり、また最初から。
明らかに、集中できていない。
扉をノックすると、演奏が止まった。
「どうぞ」
カノンの声。
三人が入ると、カノンは立ち上がった。
「あ……昨日の」
「こんにちは、水瀬さん」
レイナが微笑む。
「ちょっとお話、いいかしら」
カノンは頷いた。
四人は、ピアノの周りに座った。
「あの、昨日のポスターのこと、考えてくれた?」
ミオが単刀直入に聞く。
カノンは俯いた。
「考えました……でも、やっぱり無理だと思って」
「どうして?」
「母が……許すはずがないんです。私は、クラシックピアニストになるために、ずっと練習してきました。軽音楽なんて——」
「軽音楽なんて、何?」
ユイが尋ねた。
「母は……『遊び』だって言います。クラシックこそが本物の音楽で、J-POPみたいなものは——」
カノンは言葉を切った。
「でも、水瀬さん自身はどう思ってるの?」
ユイの問いに、カノンは顔を上げた。
「私……」
カノンの目に、うっすらと涙が浮かんでいた。
「私、クラシックより、J-POPの方が好きです。宇多田ヒカルも、globeも、Every Little Thingも、みんな大好きです」
その告白は、堰を切ったように溢れ出た。
「自由に弾きたい。楽譜を無視して、自分の好きなように。間違えても、笑い飛ばせるような音楽がしたい」
カノンは両手で顔を覆った。
「でも……それを母に言えなくて……ずっと、我慢してきて……」
ミオが、カノンの肩にそっと手を置いた。
「じゃあ、一緒にやろうよ」
「でも……」
「内緒でやればいいじゃん。バレないように」
「嘘をつくのは……」
「嘘じゃないよ」
ユイが言った。
「自分の本当の気持ちを、ようやく実現させるだけ。それは嘘じゃない」
レイナも続けた。
「水瀬さん。私たちには時間がないの。12月31日まで、あと133日しかない」
「133日……」
「世紀末という、特別な日に、私たちは特別な舞台に立ちたい。そのために、あなたの力が必要なの」
レイナはカノンの目を見つめた。
「あなたのピアノと、私たちの音楽が合わさったら、きっと素晴らしいものができる。それを、一緒に作ってくれない?」
カノンの涙が、頬を伝った。
しばらくの沈黙。
そして——
「……やります」
小さな声だった、けれど決意の込められた声。
「本当に!?」
ミオが飛び上がって歓声を上げる。
「はい……怖いけど、後悔したくないから」
カノンは涙を拭いた。
「1999年、世紀末。二度と来ない年に、私も何かしたい」
三人は顔を見合わせ、笑顔になった。
「ありがとう、水瀬さん」
レイナが手を差し出す。
カノンは、その手を握った。
「よろしくお願いします」
◇
その日の放課後。
四人は部室に集まった。
カノンは、部室に置かれた古い電子キーボードを見つめた。
「これ……使ってもいいんですか?」
「もちろん。っていうか、これからはあなたの楽器よ」
レイナが微笑む。
カノンは椅子に座り、キーボードのスイッチを入れた。
電源が入る音。液晶画面に表示される文字。
YAMAHA PSR-275。1990年代後半の入門用キーボード。グランドピアノとは比べ物にならない、安価な電子楽器。
でも——
カノンが鍵盤を弾いた瞬間、その顔が輝いた。
「すごい……ピアノとは全然違う」
「でしょ? 音色も変えられるし、リズムも出せるし」
ミオが嬉しそうに言う。
カノンは夢中で、様々な音色を試していく。
ピアノ、オルガン、ストリングス、ブラス——
電子音で作られた、安っぽい音色たち。
でも、カノンにとっては——それが新鮮だった。
「これ、すごく楽しい……」
カノンは笑った。
心から、楽しそうに。
その笑顔を見て、ユイは思った。
この子も、自分と同じだ。
何かに縛られて、本当の自分を出せなかった。
でも——1999年という年が、それを変えようとしている。
「じゃあ、簡単な曲から練習してみようか」
レイナがギターを構えた。
「ミオ、ベース準備して」
「了解!」
ミオもベースを手に取る。
「水瀬さんは……そうね、Cのコードから始めましょう」
「Cのコード……」
カノンは戸惑った表情を見せた。
「コードって、何ですか?」
三人は顔を見合わせた。
そうだ——クラシックには、「コード」という概念がない。
「えっと、簡単に言うと、複数の音を同時に鳴らす和音のことで——」
レイナが説明を始める。
カノンは真剣な顔で聞いていた。
そして——
「わかりました。やってみます」
カノンの指が、鍵盤を押さえた。
C-E-G。
Cメジャーコードの音が鳴る。
「そう、それ!」
「次はGに移って——」
レイナの指示に従い、カノンは次々とコードを弾いていく。
最初はたどたどしかったが、すぐに慣れていく。さすが、クラシックで培った技術だ。
「すごい、水瀬さん、覚えるの早い!」
ミオが感心する。
「じゃあ、みんなで合わせてみようか」
レイナのカウント。
そして——
四人の音が、初めて重なった。
ギター、ベース、キーボード。
不完全だけど、確かに音楽になっている。
「すごい……」
カノンが呟いた。
「これが……バンド」
その目に、涙が浮かんでいた。
でも、それは悲しみの涙ではなく——
喜びの涙だった。
◇
練習が終わり、片付けをしている時。
ミオが突然言った。
「ねえ、水瀬さん。もっと気軽に呼んでいい?」
「え……?」
「水瀬さんって、なんか堅苦しいじゃん。カノンちゃん、でいい?」
カノンは戸惑った顔をした。
「私、友達に名前で呼ばれたこと、ほとんどなくて……」
「じゃあ、今日からだね! カノン!」
ミオの明るい声に、カノンは小さく笑った。
「はい……ミオさん」
「ミオでいいよ! さん、とかいらない!」
「じゃあ……ミオ……ちゃん」
「そうそう! ユイもレイナ先輩も、みんなそう呼ぼうよ!」
カノンは三人を見渡した。
初めて——本当の意味での「仲間」ができた気がした。
「よろしくね、カノン」
ユイが手を差し出す。
カノンは、その手を握った。
「よろしく……ユイ」
◇
その夜、カノンは自室のベッドに座っていた。
手には、軽音部のポスター。
そして、今日初めてもらった——メンバー連絡先が書かれたメモ。
ポケベルの番号。PHSの番号。
カノンは、自分のポケベルを取り出した。
母親は「そんなもの必要ない」と言っていたが、カノンがお年玉で買った、安物のポケベル。
ほとんど使ったことがなかった。
でも——今日から、使う理由ができた。
カノンは、ミオの番号にメッセージを送った。
『0833(おやすみ)49(よろしく)』
数字だけのメッセージ。
数秒後、返信が来た。
『33414(さみしい)!0840(おはよう)14106(いしょに)』
カノンは微笑んだ。
窓の外を見ると、夜空に星が瞬いていた。
1999年8月20日。
世紀末まで、あと133日。
カノンの新しい人生が——今、始まった。
(第2話「クラシックが終わる日」 完)
【次回予告】
四人になったメンバー。しかし、まだ一人足りない。
廃部まで、残り時間は少ない。
そんな中、体育館裏でドラムスティックを握り、空き缶を叩く一人の少女がいた。
黒崎アヤネ——茶髪に厚化粧、ルーズソックスの「ギャル」。周囲から偏見の目で見られ続けた彼女は、誰にも音楽の才能を認めてもらえなかった。
でも、ユイは気づく。
彼女のリズムに、魂があることに——
第3話「ギャルがドラムを叩く理由」
1999年、世紀末は全ての偏見を壊す。
【ミレニアム★ロック】 ― 廃部寸前の軽音部で、私たちは失った夢をもう一度鳴らす― kazuchi @kazuchi
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