【ミレニアム★ロック】 ― 廃部寸前の軽音部で、私たちは失った夢をもう一度鳴らす―

kazuchi

第1話「1999年、世紀末の約束」

『世紀末まで、あと138日。

  私は2年前に"声"を失った。

  そして今、取り戻すために——』


 時は1999年8月15日、午後零時。


 私立桜ヶ丘女子高の屋上で、天野あまのユイはMDプレーヤーの小さな液晶画面をじっと見つめていた。


 緑色の表示には『BUMP OF CHICKEN ガラスのブルース』の文字。回転するMDディスクの、かすかな振動がユイの手のひらに伝わる。


 音楽がまだ手に持てる形をしていた時代の産物だ。


 イヤホンを外すと、夏の蝉の声が一気に押し寄せた。校庭の向こう、陽炎の揺れるアスファルト。真夏の空気は重たく、制服の白いブラウスが肌にまとわりつく。


「……すうっ、はあっ」


 最初の一声が出るか不安で、ユイは胸の奥まで新鮮な空気を送り込んだ。喉の調子は悪くない。


 フェンスの金網に背を預け、小さな声で歌い始める。誰にも聞かれないように。


 低音から始まるメロディー。

 ゆっくりと音程を上げていく。

 喉の奥から響く声が、少しずつ形になる。


 一番のAメロ。

 静かに、丁寧に。

 一音一音を確かめるように。


 Bメロ。

 少し感情を込める。

 でも、すぐに喉が締まる。


 息を整えて、もう一度。


 サビに入る。

 音域が開ける。


 高音へと駆け上がる——


 でも、途中で途切れた。


 (また……だめだ)


 深呼吸。

 もう一度。


 今度は、最後まで歌い切った。


 声は熱気の中へ溶け、空へ散っていった。

 誰にも届かない。観客オーディエンスはゼロ。


 それでいい——そう思っていた。


 そっと目を閉じた時、背後で誰かの声がした。


「すご……」


 身体が反射的に硬直する。振り返ると——茶髪、ルーズソックス、短いスカート。同じクラスの星川ほしかわミオが、ポータブルアンプとMDプレーヤーを抱えて立っていた。


「ミ、ミオちゃん……いつから?」


「たった今! 階段上がったら、ユイの声が聞こえて——」


 ミオの目はきらきらしていた。その無邪気さが、逆にユイの胸をざわつかせる。


「ねえ、今歌ってたの、ユイでしょ? めっちゃ上手すぎ!」


「い、いや、違うの。ただの……練習みたいな……」


「嘘ー。私、ベース始めたばっかでヘタだけど、ユイと組めたら絶対いいバンドできるって!」


 興奮気味の声が、ユイの耳の外側をすり抜ける。

 ——聞かれた。また、誰かに。


 胸の奥がざわつき、喉がきゅっと狭まる。


「ね、お願い! 軽音部に来てよ!」


「……け、軽音部……?」


 その言葉が、痛いほど古い傷を抉った。

 音楽。ステージ。視線。失敗。

 頭が勝手に連想してしまう。


「私……無理。人前じゃ歌えない」


「だいじょーぶ! とりあえず部室見るだけでもいいから! レイナ先輩、めっちゃ優しいし!」


 ミオが手をつかんだ。夏の陽を吸った掌の温度に押し切られ、ユイは結局、断りきれなかった。


 ◇


 音楽棟の廊下は薄暗く、古い木材の匂いがした。

 壁には色の抜けたポスター——『First Love』『TIME TO DESTINATION』。

 J-POPが最後の輝きを放っていた時代の残り香。


 ふと、ユイの目が一枚のチラシで止まった。


『1999 Millennium Rock Fes

 世紀末、渋谷が燃える

 12月31日

 渋谷公会堂

 高校生バンド日本一決定戦

 優勝者は2000年メジャーデビュー確約』


 ミオが肩越しにのぞき込みながらユイに言う。


「ミレニアムロックフェスだよ。レイナ先輩、ここに出るのが夢なんだって」


 世紀末ミレニアム

 その響きが、妙に胸をざわつかせる。


 ——1999年は、世界が一度終わる年。

 そんな空気が街にもニュースにも満ちていた。


 ミオが軽音部の扉を叩く。


「どうぞ」


 落ち着いた声。

 扉の向こう、夕陽の差す部屋で埃が光をまとって舞っていた。


 中央に座っていたのは——

 黒髪のポニーテールを揺らす三年生、月宮つきみやレイナ。古いアコースティックギターを抱え、静かに弦を撫でていた。


 その音は、悲しみとも祈りともつかぬを含んでいた。


「ようこそ。天野さん、でいいかしら」


「は、はい……」


 レイナの瞳を覗き込んだ瞬間、ユイは気づいた。

 ——井戸の底のような深い暗さを、その目は抱えている。


「星川さんから聞いたわ。あなた、歌が上手いんですってね」


「いえ……そんな」


「目を見たら分かるの。音楽を愛してる人の目。

 ……そして、音楽から逃げてる人の目も」


 胸の奥が強く疼く。


 レイナは壁に置かれた写真立てを手に取った。

 写っていたのはレイナにそっくりの女性。ギターを抱え、無邪気に笑っている。


「私の姉、美咲みさきは、二年前に亡くなった」


 思わずユイの呼吸が止まる。


「姉は言ってたの。『世紀末の渋谷で私は日本一になる』って」


 ガラスに触れるレイナの指が震えていた。


「でも……その三日後に姉は倒れた。急性骨髄性白血病。入院して、あっという間だったわ」


 涙はない。ただ乾いた深い悲しみだけが、静かな声の隙間からこぼれた。


「だから私は誓ったの。姉の代わりに、あの大舞台に立つって」


 かける言葉が見つからない。急速に胸が締めつけられる。


「でも、私には足りないものがある。姉にあって私にないもの——それは“声”。魂を揺さぶるような熱いボーカル」


 レイナはユイを真っ直ぐ射抜くように見つめた。


「天野さん。あなたの声が必要なの」


「私なんか……また失敗したら……」


「失敗していいのよ」


 レイナの微笑みは、どこか壊れそうだった。


「だって私たち、もう失ってるんだから。あなたは歌う機会を。私は姉を。

 ——失うものなんて、何もない」


 その一言で、ユイの中の何かが音を立てた。


「……仮入部、させてください」


 自分の声が、他人のものみたいに聞こえた。


 ◇


 その夜。ユイは自室のパソコンの前に座っていた。

 Windows 98の起動音が鳴り、ダイヤルアップ接続の『ピーヒャラピーヒャラ』という電子音が部屋に満ちる。56kbpsの遅い回線が、ゆっくりとYahoo! JAPANの画面を読み込んだ。


 検索窓に『ミレニアムロックフェス 1997』と入力する。

 画像は出ない。テキストだけが、かすかなノイズを挟みながら少しずつ表示されていく。


『1997年12月2日 地区予選結果

 準優勝:Moonlight Harmony(月宮美咲・Vo&Gt)

 「来年こそ優勝する。1999年12月31日——」』


 文章はそこで途切れていた。


 次のリンクを押す。


『1997年12月5日

 新星ギタリスト月宮美咲、急逝

 「若すぎる死」「なぜ彼女が」——悼む声続々』


 ユイはマウスを握る手に力を込めた。

 2年前。自分がステージで声を失った年。

 そして、レイナの姉が夢を残して逝った年でもある。


 これは単なる偶然——なのだろうか。


 そのとき机の上でポケベルが震えた。ミオからの短いメッセージが小さな画面に表示されている。


『0840(おはよう)33414(さみしい)49(よろしく)』


 1999年特有の、不完全な言葉のやり取り。

 ユイも、ゆっくり数字を打ち返す。


『3341(さみしい)14106(いっしょに)49(よろしく)』


 送信すると、ポケベルの画面が小さく光った。

 ユイはベッドに沈み込み、天井を見つめる。


 138日。


 世紀末まで——20世紀が終わるまで、あと138日。

 その日までに、自分は変われるのだろうか。

 2年前の失敗を、1999年に塗り替えることができるのだろうか。


 窓の外では遠くで蝉が鳴いていた。


 1999年8月15日の夜は、まだ終わらない。


 ◇


 翌朝。ユイは通学路のコンビニに寄った。

 店内に流れるのは宇多田ヒカルの新曲。レジ上の小さなテレビでは、2000年問題の特集が流れている。


 雑誌棚には『CanCam』『JJ』『Ray』。その隣に『ROCKIN'ON JAPAN』『CDでーた』が積まれていた。まだ紙の媒体が情報の中心にあった時代。


 レジ横にはいかにも1999年らしいチラシが並んでいる。


『着メロ交換サービス』

『iモード対応携帯発売!』

『2000年問題、あなたのPCは大丈夫?』


 ユイは74分録音できるMDディスクを一枚選んだ。498円。


 ——このディスクに何を録ろう。

 自分の声を入れるには、まだ勇気が足りなかった。


 昼休みの屋上。

 ミオが先に来ていて、ベースを抱えてつたないフレーズを練習していた。


「あ、ユイ!」

 ミオが笑って手を振る。


「昨日の続きをやろう! 私、超頑張って覚えたんだよ!」


「うん」


 ユイはミオの隣に腰を下ろした。


「ミオちゃん……レイナ先輩のお姉さんのこと、知ってた?」


 ミオの指が一瞬止まる。


「うん。入部したときに聞いた。……泣いたよ。レイナ先輩さ、お姉さんの夢を守るために、ずっと一人で軽音部を続けてきたんだって」


 夏の風が吹き、ミオの茶色の髪が揺れた。


「1999年って何か特別じゃん。世紀末。一区切りの年。だから、この年に何かを成し遂げるって、意味がある気がするんだよね」


 ミオは空を見上げる。

 ユイも同じ方向を見た。


 青い空。蝉の声。照りつける真夏の陽射し。

 でも、この空も——あと四ヶ月で冬になる。


 そして12月31日。

 世紀末の夜が来る。

「練習、始めよっか!」

 ミオが弦を軽く弾いた。


 ブンブンブン——

 たどたどしいベースライン。

 でも、そこには確かにリズムがある。


 ユイは小さく息を吸い、声を出した。


 最初のフレーズ。

 声が震える。

 音程が定まらない。


 ミオのベースが止まる。


「……ユイ。大丈夫だから、ゆっくりでいいよ」


 ミオが、もう一度最初から弾き始める。

 今度は、もっとゆっくりと。


 ユイは、そのリズムに合わせる。


 一音。

 また一音。


 少しずつ、声が安定してくる。


 二番目のフレーズ。

 ミオのベースが、しっかりと支えてくれる。


 今度は、最後まで歌い切れた。


「すごい! ユイ、めっちゃいいじゃん!」


 ミオが目を輝かせる。


「でも……まだ全然……」


「ううん、いいよ。昨日より、絶対良くなってる」


 昨日より、ほんの少しだけ音が伸びた気がした。


 ミオと一緒なら——

 誰かと一緒なら——


 私は、もしかしたら歌えるかもしれない。


 放課後。部室。


 レイナは部屋の隅で、MTR——TASCAM Portastudio 414を操作していた。

 カセットテープに4トラック録音できる、1999年の宅録の象徴。


「天野さん、来てくれたのね」


「はい」


 部屋の壁にはJUDY AND MARYやナンバーガールのポスターが貼られ、机の上には『ROCKIN'ON JAPAN』1999年8月号——DRAGON ASHが表紙の専門誌が無造作に転がっている。


「そういえば、まだ部員が足りないのよね」


 レイナが機材を止めた。


「ええ。あと二人。今月中に五人集まらないと、廃部が決まるわ」


「……廃部」


「でも、必ず見つける」


 レイナの声は強かった。


「1999年12月31日まで、あと137日。絶対に間に合わせる」


 横でミオが手作りのポスターを広げる。


『軽音楽部 部員募集!

 1999年12月31日 ミレニアムロックフェス出場を目指す!

 世紀末を、私たちの音で彩ろう!

 初心者歓迎!』


 不器用だけど、色が弾むようなデザインだった。


「これ、貼りまくろう!」

 ミオが元気よく言う。


 三人は学校中を歩き回り、ポスターを貼っていく。

 廊下、階段、掲示板、購買部——

 夕陽が校舎を赤く染めていく中、一枚、また一枚。


 渡り廊下でユイはふと足を止めた。


「ユイ、どうしたの?」

 ミオが振り返る。


「ううん……なんでもない」


 でも——胸の奥で確かに何かが動いていた。


 1997年から固まっていた塊が、ゆっくりと溶け始めている。

 1999年という特別な年が、世紀末という空気が——


 もしかしたら、自分を変えてくれるのかもしれない。


 その夜。ユイはMDプレーヤーの再生ボタンを押しながら、窓の外に視線を投げていた。

 八月の夜空には、まだ熱を含んだ風が流れ、星がいくつもかすかに瞬いている。


 世紀末の夜、自分はどこで何をしているんだろう。


 机の上のカレンダーに赤いマーカーで印をつける。

 12月31日。

 そこまで、あと137日。


 ユイはイヤホンを耳に差し込み、MDプレーヤーの音量を少し上げた。

 BUMP OF CHICKENの歌が、両耳いっぱいに広がる。


 ギターのイントロ。

 切ないメロディーライン。


 そして、歌声——

 力強く、でも優しい。

 言葉が、心に染み込んでくる。


 その声が、語りかけてくる。

 逃げないで。

 向き合って。

 歌い続けて。


 メッセージが胸の奥に激しく刺さった。


 ユイは、イヤホンを外す。

 そして、小さくハミングした。


「ん〜〜〜」


 音程を探りながら。

 メロディーをなぞるように。


 最初は不安定。

 でも、少しずつ安定していく。


 フレーズの最後。

 声を伸ばす。


 誰にも届かない、弱々しいけれど確かな歌。


 でも、明日からは違う。

 誰かと一緒に歌う。

 レイナ先輩のために。

 ミオちゃんのために。

 そして——


 2年前に置き去りにしてきた、自分自身のために。


 窓の外では、蝉が残りの力を振り絞るように鳴いていた。

 1999年の夏は、ゆっくりと幕を閉じようとしている。


 それでも、自分自身の物語はこれから始まる。


 2年前の私を1999年の私が終わらせる。


 ——あと138日で私は生まれ変わりたい。


 (第1話「1999年、世紀末の約束」 完)



【次回予告】


 新入部員を探し始めた三人だったが、まわりの反応は乏しく、廃部の影は濃くなる一方だった。

 そんなある日の放課後、音楽室から流れてきたのは、完璧すぎるほどのピアノの音。


 だが、その音には何かが欠けていた。


 水瀬カノン——クラシックの世界で「天才」と呼ばれてきた少女。

 母の期待に縛られ音楽の自由を知らない彼女が、ユイの歌声と出会う時——

 1999年の夏がゆっくりと動き出す。


 第2話「クラシックが終わる日」

 世紀末は何かを終わらせ、そして新しい何かを始めさせる。

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