猫が喋った日

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猫が喋った日






「ふぉあぁあぁぁ〜……」


 欠伸をしながら上体を起こす。ベッド脇に置いてあったスマホを手に取り、ワオ、もう8時? ベッドの蓋を開け放ち柵を乗り越えて急いでパジャマを脱ぐ。制服へと華麗にフォームチェンジすると部屋を飛び出して廊下と階段をドタドタと踏破した。


「おはようかん〜」


「おはよう母さん早速だけど俺の名前は莞爾じゃなくて工藤だよ」


 いしわらどう。それが俺の名前らしい。莞爾という勘違いがどこから来たのか、彼女に訊いても「……さぁ?」としか返らない。妹曰く、母は高校時代に日本史を選択していたことが理由らしいが、全くもって訳がわからない。俺も日本史選択だが、石原莞爾などという名前は聞いたことが無いからだ。


「それじゃ行ってくるね」


「行ってらっしゃ〜い」


 食卓に置いてあった目玉焼きをマナーが悪いと自覚しつつ手掴みで口に放り込み、ハンカチで手を拭きながら靴を履く。外に出ると自転車に乗り込んで間に合え間に合えとひたすらに念じる。


「現在時刻は午前8時05分……行けるッ!」


 自転車が走り出し、体感でセミの鳴く声よりも速くコンクリートに跡を付けていく。そういえば今年はセミが秋になっても鳴いているが、何かあったのだろうか。俺の記憶によるとセミは夏の間に死滅するはずだが。

 まぁ、俺みたいに日々を無思考に生きている人間の知識なんて誤りばかりだろう。生物の教科書にもセミは一年中うるさく鳴く害虫と書いていたし、間違っているのは俺の方だ。そんなことを考えている間に校門へ到着。


「現在時刻午前8時16分……間に合わず」


 チクショウ。セミのことなんて考えていたばっかりに。


 校舎に入り、巡回する先生方に気付かれないよう物陰を移動しながら教室へ向かう。最後の廊下は一切の遮蔽物がないので一気に駆け抜けた。今日は無事に生き延びられたようだ。


 教室後方のドアを音が立たないように開ける。


「侵入者だ!」


 が、虚しくもバレてしまった。教壇に立つちんちくりんの女が今すぐ捕まえろ逮捕しろだの騒いでいたので、ツカツカと歩み寄りゲンコツを加えてやった。


「いたい!」


「誰が侵入者だ。しっかりとした生徒だよ」


 一昨年の入試で合格点スレスレを取った、誰もが認めざるを得ない本校生徒である。


「む、太郎か」


 そしてコイツは我が愚妹である。名前はカスミ。よく俺のことを太郎と間違えるが、俺は工藤であって断じて太郎ではない。


「太郎じゃねーよ工藤だよ」


「ではそちらもいい加減私がカスミではなくオボロだと認識してくれたまえ」


「え? そんな名前だったっけお前?」


 思わず愚妹を頭から足まで撫でるように見た。ちっちゃい。


「何見てるんだこの変態!」


「いや、どうにもオボロって感じじゃねーよなって思って」


「貴様がどう感じるかではなく、元々どうであるかの方が重要であろうに……もういい、席に戻りたまえ。しかと遅刻扱いにはしておくゆえ」


「へーい」


 この愚妹に交渉を試みることの愚かしさを俺は理解しているので素直に席に向かった。すると途端にクラスが騒がしくなる。……コイツらはこれまで黙って俺たちのやり取りを見ていたのか、少し恥ずかしい。


「今日もナカヨシだったなー」


 隣の席の6号が茶化してくる。


「そんなことねーよ」


 俺はカバンから化学の教科書を取り出しつつおざなりに答えた。


「でも実際一条くんとオボロちゃんって兄妹仲なりいいよね」


「一条じゃない、工藤だ」


 6号とは反対の席に座る誰かに訂正しながらそうか? と首を捻る。十数年を共に生きていたらこのぐらいは普通だと思うが。というか俺の席は教室の端にあって6号の反対側は壁なのだが。まぁ、壁だってたまには喋りぐらいするだろう。女子の声だったので俺に不満は無い。


「では! 改めて授業を始める。教科書の168ページを開いて……」


 愚妹はサボりに厳しいので、これから一時間は全ての意識を彼女の声に向けなければならない。ふと彼女は生物の教師ではなかったかと思ったが、無機質だの鉄の配位数だのに言及す様子からはとてもそうは思えない。気のせいだと流すことにした。その後二度とそんなことを思うことは無かった。




     ◊◊◊




 四時間目が終了し昼休みとなる。


「タカシー弁当食おうぜー」


「タカシじゃなくて工藤な」


 6号と席を引っ付けつつ名前を訂正する。誰が何と言おうと俺は工藤である。そこだけは変わらない。


「さっきの√縛嚵㏍の授業だけどさー」


「あー耀雅楽的崩壊矛盾定理のとこ?」


「いや、府寿术摘のとこ」


「そっちか、それが?」


 午前の授業について分からなかった点を交換し合うという実に知的な昼休みを過ごす。センター試験まであと二ヶ月、頑張らなければ。


「邪魔させてもらうぞ」


 しかしそんなインテリジェントなランチタイムを邪魔する者が居る。我が愚妹である。


「邪魔するなら帰れ」


「貴様の隣が我が還る場所だ」


「うわキッショ、ブラコンってやつ?」


「それ、既に死語であるぞ」


「いいな……俺もそんな妹が欲しいだけの人生だった……」


 6号が生命活動維持の限界を迎え崩壊する。俺が合掌すると間もなく7号が教室に入ってきた。


「よーっすタカシ、初めまして」


「タカシじゃない、工藤だ」


 別人になっても名前の間違え方というのは変わらないのだろうか。


「なぁ太郎、あのことを覚えているか」


 愚妹がまるで何も起きなかったかのように問うてきた。


「あのことって?」


「今日は何の日だ」


「……あー、忘れてたわ」


 本日は我が家の猫が喋る日である。


「タカシって猫飼ってたっけ?」


「あぁ、でっかい黒猫だ。あと工藤な」


 猫の名前は何だったか。確かクロなんちゃら……


「うむ。名前はしんとうこくおうというのだ」


 ……違ったらしい。俺と違って愚妹は頭の出来がいいから飼い猫の名前を間違えるなんてことはしないだろう。……頭の出来がいいのに妹? というか何で俺は高校生なのに妹は教師なんだ。俺は留年なんてしてないぞ。


「へー、実は俺ん家も猫飼っててさ、丁度一年前に喋ったんだよ」


「ほう、何と言ったのだ」


 何それ興味ある。そう思った途端、先程まで考えていたことは忘れてしまった。


「俺の時は『ケチャップ』だけだったんだよなー。何の意味があるのか結局わからずじまいだ」


「む。猫の言葉は一生に一度しか発されぬ上にそれを聞いた人間に大きな影響を与えると聞く。それから何か変化は無いのか?」


「何も無いんだよなー、それが」


 7号は残念そうに天など仰いでいる。ここは青空教室なので雲一つ無い空を侵す入道雲がよく見えた。はて、入道雲は冬の雲ではなかったか。


 それからは愚妹が暗くなった空気を明るくしようと奮闘し、7号もそれにノったので楽しい昼休みを過ごせた。早く家に帰りたいな。




     ◊◊ ◊




 放課後、遊びに誘ってくる8号を無視してダッシュで家に帰った。


「おかえり莞爾ー、だいこくが喋りそうよー」


「うおおお何とか間に合ったか」


 靴とカバンを放り投げ、我が家の猫である大黒屋が座する居間へと向かう。


 大黒屋は大きな黒猫で、ある日突然精神に異常をきたし今は入院などしている父の代わりに我が家の大黒柱をしている。貫禄のある肉体は触ると意外とガッシリしていて、一家を支えるということが如何に大変なのかがよくわかる。


「ふぇ〜、間に合った……」


 我が唯一の妹であるカスミも中学から帰ってきたようだ。


 母と妹と俺とで大黒屋を囲む。大黒屋は時が来たというようににゃあと鳴いて、それから、


『草冠』


 と言った。


「……………………」


「……………………」


「……………………」


 三人して黙り込む。


「…………草冠」


「あのサみたいなやつだよね?」


「さ……?」


 大黒屋は草冠と発したきり何も言わない。ふてぶてしい顔で眠ってなどいる。


「…………さて、夕飯の支度をしましょうか」


「私も課題やろっと」


「じゃあ俺は筋トレでもしてくるかな」


 イベントの終了を確認した俺たちは夕飯までそれぞれ思い思いに過ごすことにした。


「……………………」


 庭に出るとミンミンとセミが鳴いている。セミの鳴き声はジジジジではなかったか。


「莞爾ー、ちょっと手伝ってくれるー?」


 台所から母のそんな声が聞こえてきた。


 俺は工藤だと叫び返しつつも、俺よりも人生経験豊富な母がそういうのならやっぱり莞爾かもしれないなと思い直した。まぁ、俺の名前なんて誰もが間違えるものであるし、何であっても問題はあるまい。


「今行くよ母さん」


 俺は東日を背にキッチンへと急いだ。ゴゴゴゴとセミが鳴いている。

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