第17話 硝子の平穏
廃墟となった街の朝は、静寂に包まれていた。かつては人々の喧騒で溢れていたであろう大通りも、今はひび割れたアスファルトの間から雑草が芽吹き、打ち捨てられた車両が骸骨のように横たわっている。崩れたビルが作る複雑な影の中に、淡い朝陽が差し込み、埃が光の粒となって舞っていた。
その広場で、二人の少年が火花を散らしている。
「……行くぜ、俊!」
朔夜の鋭い叫びと共に、その身体が爆発的な踏み込みを見せた。しなりを伴った右の回し蹴りが、俊の側頭部を目がけて一閃される。
(……来る)
俊は極限まで集中を高めた。彼の瞳の奥で、世界が変質する。 景色から色が失われ、白と黒の階調になった世界に、鮮やかな二色の「線」が走り出す。
まず視えたのは、朔夜の脚の軌道をなぞる、血のように禍々しい赤い線。それは俊が触れれば命を落としかねない「死の予兆」だ。 そして次の瞬間、その死線を回避し、かつ相手の懐へと潜り込むための、澄んだ水のような青い線が地面から空中に向かって伸びる。
俊はその青い線に導かれるように、流れるような動作で身を沈めた。 頭上を、朔夜の蹴りが空気を引き裂く音を立てて通過していく。俊は即座に、自身の目の前に提示された次なる青い線――反撃の軌道に沿って、朔夜の軸足の膝へ向けて鋭い低空の蹴りを放った。
「おっと……!」
だが、朔夜もまた、以前の彼ではなかった。 俊の放った「見えない最適解」からの反撃に対し、朔夜は野生的な直感で反応する。俊の蹴りが届く直前、膝を引き抜くようにしてかわし、さらに着地と同時に俊の胸元へ掌底を突き出した。
俊は再び走った赤い線を、最短のステップで回避する。
(……まだ、いける)
以前の俊であれば、この短時間の異能の使用だけで、脳が沸騰するような感覚に襲われ、鼻血を出して倒れ込んでいただろう。しかし、絶え間ない特訓の結果、彼の精神的な強度は劇的に向上していた。 現在、脳への過度な負担を感じずに異能を維持できる時間は、初期の頃の3倍――およそ1分から3分にまで伸びている。
「そこまで!」
凛とした声が響き、二人の動きが止まった。 広場の隅に置かれた、コンクリートの塊をテーブル代わりにした場所に、花が立っていた。
「二人とも、今日は一段と動きが鋭かったね。でも、あんまり無理しちゃダメだよ?」
花はパーカーの袖を捲り、少し誇らしげに、温かいスープが入ったマグカップを差し出した。 俊と朔夜は、全身から立ち上る湯気を拭いながら、花の元へと歩み寄る。
「……サンキュ、花。俊の奴、マジで捕まえづらくなってきやがった」 「朔夜こそ。僕の反撃をあんなに自然に受け流すなんて……本当に、手がつけられないよ」
二人は笑い合いながら、花が用意した食事を口にする。 ここ数週間、彼らの周りには不思議なほどの「静寂」が訪れていた。あの凄惨な刑務所襲撃の後、世界は嵐の前の凪のように静まり返り、追手の一人すら現れない。
花は、美味しそうにスープを飲む二人の横顔を、眩しそうに見つめていた。 (……こんなに穏やかな時間が、また来るなんて思わなかった。本当は、ずっと怖かった。明日が来ないかもしれないって、毎晩眠るのが怖かったけれど……) 彼女は自分のパーカーの裾を、そっと指先で握りしめる。 自分だけがこの場所で、何もできずに守られているのだという事実は、時折、彼女の胸を鋭く突き刺す。
(でも、私は……。二人がこうして、ただの男の子みたいに笑っていられる時間を、一秒でも長く守りたい。この温かいスープみたいに、二人の心を温めることが、今の私にできる精一杯の戦いなんだ)
「……花? どうしたの、そんなにじっと見つめて」 俊が不思議そうに首を傾げた。 「えっ!? あ、ううん。なんでもないよ。……ただ、二人が無事で、こうして一緒にいられるのが嬉しいなって」 花は照れ隠しに、はにかむような笑みを浮かべた。 「……当たり前だろ。俺たちが、お前を一人にするわけねぇだろ」 朔夜が無造作に花の頭を撫でる。 「そうだよ、花。僕たちは三人で一つなんだ。……この時間が、いつか壊れるかもしれない。でも、だからこそ、今は一緒に笑っていよう」 俊の優しい言葉に、花の瞳が少しだけ潤む。(……家族って、こんな感じだったなぁ)
いつ崩れるかもわからない、硝子細工のような脆い平穏。それでも三人は、互いを支え、信じ合い、この瞬間を確かに生きていた。
その頃。 三人の微かな笑い声など届くはずもない、東京・永田町の中心部。 地下深く、外部からの電波を完全に遮断した「特別閣議室」では、日本の命運を左右する、どす黒い熱気が渦巻いていた。
重厚な円卓の周囲には、普段はテレビの画面越しに見かける閣僚たちが、顔を強張らせて並んでいる。その中心に、首相・百戸腹 己悟郎は、石像のように微動だにせず座していた。
「……改めて報告します。東京都刑務所の崩壊による損害は、国家予算の一割に相当する経済損失に加え、法治国家としての威信を根底から覆すものです」 防衛大臣が、声を震わせながらタブレットの資料を指し示した。 「さらに、収容されていた【ゾーク】の幹部・ペルセの救出。これは、奴らがいつでも我が国の最高機密を奪い去り、中枢を破壊できるという宣言に他ならない!」
「待ってください! だからといって、例の『特殊排除要綱』を発動するなど、断じて認められません!」 法務大臣が、机を激しく叩いて立ち上がった。 「あれは人道に反する! もし公になれば、我が国は国際社会から完全に孤立します。憲法を、法を、我々自らが踏みにじるというのですか!」
「法だと!? ゾークの異能者たちの前で、紙切れに書かれた法が何の役に立つ!」 厚生労働大臣もまた、血走った目で叫び返した。 「国民は怯えている。私の元には、毎日数千件の悲鳴のような陳情が届くのだ。彼らは『法を守れ』などと言っていない、『助けてくれ』と言っているんだ!」
「……静粛に」
己悟郎の低く、重い声が室内に響いた。 その一言だけで、怒号が飛び交っていた閣議室は、凍りついたような静寂に支配された。 己悟郎はゆっくりと眼鏡を外し、デスクに置いた。その目は、睡眠不足による隈で縁取られていながらも、獲物を狙う猛禽類のような鋭さを失っていない。
「我々が守るべきは、法の体裁か? それとも、この『日本』という国家の存続か?」
己悟郎の問いに、誰も答えない。 「神野を切られた今、我々に残された手札は少ない。……いや、もはや一つしかない」
彼は手元にある、朱色で『極秘』と印字された分厚いファイルを開いた。そこには、これまで政府が「禁忌」として封印してきた、異能者を用いた特殊軍事計画の詳細が記されていた。
「これより、対【ゾーク】殲滅作戦……コードネーム『天岩戸(あまのいわと)』の最終フェーズへの移行を宣言する」
「……しかし、総理! それは……!」 法務大臣がなおも言葉を紡ごうとするが、己悟郎の眼差しに、その喉は引き攣るように沈黙した。
「反対する者は、この場で辞表を出せ。……一人もいないようだな」
己悟郎は満足げに頷くことはしなかった。ただ、深く、重い溜息を一つだけつくと、全閣僚を見渡して言い放った。
「全会一致。……これにて、本件を承認する。直ちに、実行部隊を動かせ。対象は、ゾークだけではない。……この国に仇なす、すべての『不確定要素』だ」
会議の終了を告げる、重厚な扉が開く音。 退出していく大臣たちの背中を見送る己悟郎の顔には、消えることのない激しい怒りと、何物にも代えがたい悲壮な決意が、深く、深く刻み込まれていた。
その決意が、廃墟の街でスープを飲み合っていた三人の運命を、再び無慈悲な激流へと引きずり戻そうとしていることを、今の彼らはまだ知らない。
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