触れられない温度
知世
触れられない温度
冬は、輪郭を忘れる季節だ。街が沈むより先に、僕の影のほうが先に薄くなる。歩くたびに靴底が世界をすり減らし、残った白さだけが、遠い記憶のように照り返す。
風の音も、誰かの声も、全ては雪に触れる前にほどけてしまう。残るのは、触れられなかった温度だけ。その温度が、ゆっくりと僕の胸の奥に沈んでいき、やがて深い湖の底に辿り着くような感覚になる。
アスファルトの上を走る車の音が遠のき、歩道橋に残った子どもたちの声がゆっくり消えていく。最後に残るのは、地面に触れた雪の粒が、ゆっくりと崩れるときの、柔らかい沈黙だけ。
その沈黙を歩くようにして、僕は地下通路へ向かう。通路の奥に、光を拒むパネルがひとつある。小さな喫茶店の広告。そこに映るのは、僕の影ではなく、影の形をした何か別のものだ。その何かは、僕より先にこの場所にいたようで、僕より後にここを離れるようでもあった。
店の名前も思い出せない。だが僕は、一度だけその店に入ったことがある。記憶は、雪より静かに胸の底に沈んでいる。
それは、雪が降った日の夜のこと、僕は傘を持っていなかった。寒さに負けて飛び込むように扉を開けると、カウンターの奥で、店主らしき女性がこちらを見もせずに、静かに本を読んでいた。顔も覚えていない。ただ、あたたかい蒸気と木の匂いだけを覚えている。
「寒かったでしょう。」
彼女は顔を上げず、まるで空気に向けて呟くように言った。僕は返事の仕方を忘れていた。うまく頷けたのかどうかすらわからない。ただその声が、どこか遠い記憶に触れたような気がした。
ホットワインの湯気は、ゆっくりと崩れる塔のように揺れた。口に含むと、酸味が舌に触れ、甘さが遅れて追いかけた。心のどこかにある小さな裂け目から、その温かさが滲み出してくるのを感じた。ひどく静かで、ひどく懐かしい。なのに、何を懐かしんでいるのかは思い出せない。
あの夜のことは、それだけだ。何ひとつ劇的なことは起きなかった。会話もほとんどなかった。ただ、店を出るとき、彼女が言った言葉だけが、なぜか耳に残った。
「また寒い日に来てください。」
客に向けたありふれた言葉。だが、その言葉は、雪片よりもゆっくり僕の肩に落ちて、消えずに残った。
僕は二度とその店に行かなかった。行けなかった。気づいたときには店は跡形もなく消えていて、広告だけが、壊れた灯りの下に取り残されていた。
今日、いつものようにその暗いパネルの前に立つ。手袋の中で指が冷え、呼吸が白く散る。パネルの表面に、誰かが触れた跡があった。指でなぞったような、白い線。
「また寒い日に。」
そう読めた気がした。あるいは違う言葉だったのかもしれない。でも、僕にはそう見えた。僕はパネルに近づき、指先で一文字だけ触れてみた。白い線はするりと消え、まるで水面に落ちる雪のように、音もなく溶けていった。その瞬間、ふと、耳元で囁く声がした。風とも息ともつかない、小さな声。
「寒かったでしょう。」
ふいに耳の裏で、そんな声がした。その言葉は、意味を持つ前に溶け、ただ温度だけを残していった。僕は返事をしなかった。返事をつくるための言葉が、もう胸の中に残っていなかった。
僕は知らないふりをしながら、知っていた。あの店はきっと、世界のどこにもなかった。この冬が、僕の中の空白を埋めようとして生みだした影。あるいは、忘れてしまった誰かの名が、最後に残した灯のようなもの。
白い通路の底で、僕は目を閉じる。雪よりも淡い気配が、そっと肩に触れた気がした。その温もりを、僕は確かに知っていた。けれど名前だけが、もう思い出せない。
冬は僕を形にしようとし、僕は冬を形にしようとするが、どちらも途中であきらめる。
世界が白くなる。僕も白くなる。白さは、名前よりも先に存在する。そして雪は、記憶の温度を知らないまま降り続ける。
触れられない温度 知世 @chise_012
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