番外編6 薔薇
※番外編です。アイリが消える前のお話になります。
自作の「物語創作システム」を使用しています。
1.
「ねえツキヨミ! 今日の依頼ってどんなの?」
アイリが赤いリボンを揺らしながら、ツキヨミの隣を飛び跳ねるように歩く。
「ああ...。契約の解除、かな」
ツキヨミは傘を肩に担ぎながら、住宅街の奥へと歩を進めた。
依頼人の家は古い一軒家で、手入れの行き届いた庭には季節外れの薔薇が咲いていた。
「こんにちは。楠木虎彦と申します」
玄関に現れたのは、七十代半ばと思われる痩せた老人だった。
背筋はまっすぐで、几帳面そうな雰囲気を纏っている。
「はい...。よろしくお願いします」
居間に通されると、楠木さんは丁寧にお茶を淹れてくれた。
アイリは老人には見えないはずだが、なぜか二人分用意されている。
「あの...」楠木さんが口を開く。「私には、息子がおりまして」
「はい...」
「もう36になります。立派に育ちました。いい人と結婚して、来月、初孫が生まれるんです」
楠木さんの表情が緩む。本当に嬉しいのだろう。
「それで...私は息子に、真実を告げたいのです。でも——」
楠木さんが息を吸う。唇が動く。
何も聞こえない。
文字通り、何も。音が、生まれない。
「あれ?」アイリが首を傾げる。「今、何か言おうとしなかった?」
楠木さんがもう一度試みる。
やはり、声は出ない。諦めたように項垂れた。
「嘘が...発声できない、んですね」ツキヨミは静かに言った。
楠木さんが驚いたように顔を上げる。
「いえ...嘘では...」彼は首を振る。
「真実なんです。でも、言えない。36年前、あることを誓ってしまったせいで」
ツキヨミは少し考えてから尋ねた。
「その誓いを...解除したい、と」
「はい」楠木さんは真っ直ぐにツキヨミを見た。
「息子に真実を告げたい。孫が生まれる前に。でないと...私は、この誓いを墓まで持っていくことになる」
アイリが楠木さんの周りをふわふわと浮遊する。
老人には見えないはずだが、なぜか楠木さんは少し微笑んだ。
「何を誓ったんですか?」
ツキヨミは訊いた。
楠木さんは立ち上がり、仏壇の引き出しから古い写真を取り出した。
写真には、若い夫婦と赤ん坊が写っている。
「36年前...私の妻の妹夫婦が、交通事故で亡くなりました。残されたのは、生後三ヶ月の赤ん坊。それが——」
「息子さん、ですか」
「ええ」楠木さんは頷く。
「妻と私には子供がいませんでした。引き取ることにしたんです。でも、妻は言いました。『この子には、真実を知らせてはいけない』と」
「どうして...」
「妻は...妹の死を、自分のせいだと思っていたんです。あの日、買い物に誘ったのは妻でした。雨の中、無理に車を出させて...」
楠木さんの声が震える。
「それで、妻は誓ったんです。この子を実の子として育てる。一生、真実は墓場まで持っていく、と」
「その誓いが...」
「執着として、残ってしまったんでしょうね」
楠木さんは苦笑する。
「妻は十年前に亡くなりました。でも、誓いは生きている。私が真実を口にしようとすると、声が...出ないんです」
アイリがツキヨミの袖を引っ張る。
「ツキヨミ、でもさ...」
小さな声で言う。
「もし息子さんが知らないままの方が幸せだったら?」
その通りだ、とツキヨミは思う。
「楠木さん」ツキヨミは慎重に言葉を選ぶ。
「なぜ、今、真実を告げたいと?」
楠木さんは深く息をついた。
「息子が...知っているんです」
「え?」
「多分、ずっと前から。十年前、妻が亡くなる少し前...息子が実家の書類を整理していた時、戸籍を見たはずなんです。でも、何も言わなかった。私も、言えなかった」
楠木さんは窓の外を見る。
「来月、孫が生まれます。息子は、その子に『楠木』の名を継がせると言っている。私に似た名前をつけたい、と」
「それって...」アイリが言う。
「ええ」楠木さんは微笑む。
「息子は、わかっているんです。血が繋がっていないことも。でも、私を父親だと思ってくれている。だからこそ...私は、ちゃんと言葉にしたい。『ありがとう』と。『お前は私の息子だ』と。でも——」
また、声が消える。
楠木さんが言おうとしたのは、おそらく「血は繋がっていないけれど」という前置きだ。
でも、それが言えない。
真実を告げることができない。
だから、感謝も、愛情も、何も伝えられない。
「つまり」
ツキヨミはゆっくりと言った。
「楠木さんは、『血縁の嘘』を告白したいわけではない」
「...はい」
「『血縁に関係なく、息子だ』という真実を、ちゃんと言葉にしたい」
楠木さんが深く頷く。
「でも、奥さんの誓いが...その前置きとなる『血が繋がっていない』という事実の発声を、物理的に阻んでいる」
「その通りです」
アイリがツキヨミの頭の上に座った。少し重い。幽霊のくせに。
「ツキヨミ、これって...」
「ああ...。難しいね」
ツキヨミは傘を膝の上に置いた。
「楠木さん。一つ、確認させてください」
「はい」
「奥さんは...なぜ、そこまで真実を隠したかったんでしょう」
楠木さんは少し考えてから答えた。
「妻は...優しい人でした。でも、自分を許せない人でもあった。妹を死なせたという罪悪感。それを償うには、完璧な母親にならなければいけない、と」
「完璧な母親...」
「実の親以上に愛する。それが、妻の贖罪でした。だから、真実を告げることは...その努力を無にすることだと思っていたんでしょう」
「なるほど...」
ツキヨミは立ち上がった。
「ちょっと、外を見せてもらえますか」
庭に出ると、薔薇の手入れが完璧にされていることがわかる。
剪定の仕方、肥料のやり方。全てが丁寧だ。
「奥さんが、育てていたんですか」
「ええ。妻の趣味でした。亡くなってから、私が引き継いでいます」
「上手に、育ててますね」
「妻に教わりましたから」
楠木さんは薔薇に触れる。
「この薔薇は...妻が息子の誕生日に植えたものです。36年、咲き続けています」
アイリが薔薇の匂いを嗅ごうとして、すり抜ける。
「あれー」
ツキヨミは薔薇を見つめた。
36年。長い時間だ。
「楠木さん」ツキヨミは訊いた。
「奥さんは...本当に、息子さんに真実を知られたくなかったんでしょうか」
「...どういう意味ですか」
「誓いというのは、呪いとは違います」
ツキヨミは傘で地面を軽く叩く。「誓いは...願いなんです」
「願い...」
「奥さんの願いは、『真実を隠すこと』だったんでしょうか。それとも——」
楠木さんがハッとした表情になる。
「『この子を守ること』...」
「そうです」ツキヨミは頷く。
「奥さんは、息子さんが傷つくことを恐れた。『捨てられた子』『押し付けられた子』そう思われることが怖かった」
「それで...」
「でも」
ツキヨミは薔薇を見る。
「この薔薇は、36年咲き続けている。楠木さんが、奥さんから受け継いで、大切に育てているから」
楠木さんの目が潤む。
「奥さんの願いは...もう叶っているんです。息子さんは、守られた。愛された。立派に育った。『血が繋がっていない』という事実は、もう...息子さんを傷つけない」
「では...」
「誓いは、もう...その役目を終えています」
ツキヨミは傘を開く。
「あとは、解除するだけ、ですね」
アイリが拍手する。
「さすがツキヨミ!」
ツキヨミは楠木さんに向き直る。
「一つ、やってもらいたいことがあります」
「何でしょう」
「息子さんを、呼んでください」
2.
一時間後、三十代後半の男性が現れた。
楠木悠斗さん。
父親譲りの几帳面そうな雰囲気だが、穏やかな笑顔を浮かべている。
「父さん、急にどうしたの?」
「ああ...悠斗」楠木虎彦さんは息子を見る。「実は...」
また、声が消える。
悠斗さんは驚かない。まるで、慣れているかのように。
「父さん、また?」
悠斗さんは優しく笑う。
「無理に話さなくていいよ。言いたいこと、わかってるから」
「悠斗...」
「俺、知ってるよ」
悠斗さんは静かに言った。
「十年前から。母さんが亡くなる少し前、戸籍を見て」
虎彦さんが息を呑む。
「でもね、父さん」
悠斗さんは続ける。
「それがどうしたの? 俺は楠木悠斗だ。父さんと母さんの息子だ。それ以外の何でもない」
「悠斗...」
「来月、子供が生まれるんだ。名前は虎太郎にしようと思って。父さんの『虎』の字をもらいたい」
虎彦さんの目から涙がこぼれる。
「でも...俺は...お前に...」
声が、消える。
ツキヨミはその時、傘を閉じた。
「楠木虎彦さん」
ツキヨミは言った。
「奥さんの誓いは、息子さんを守るためのものでした。でも、もう必要ありません」
「それに」
アイリが付け加える。
「息子さん、全然傷ついてないよ! むしろ超幸せそう!」
ツキヨミは虎彦さんに歩み寄る。
「奥さんの誓いを...解除します。その代わり、新しい誓いを立ててください」
「新しい...誓い?」
「はい...。『悠斗は私の息子だ』という誓いを」
虎彦さんが目を見開く。
「それは...嘘では...」
「嘘じゃないですよ」
ツキヨミは首を振る。
「真実です。36年間、育ててきたんでしょう。薔薇を育てるように。丁寧に、愛情を込めて」
「それって」
悠斗さんがツキヨミを見る。
「あなたは...」
「消す者、です」
ツキヨミは答える。
「執着を解除する仕事を、しています」
「執着...」
「お母さんの誓いが、物理的な制約として残っていました。でも、もう...その誓いは必要ありません」
ツキヨミは傘を掲げる。
「楠木虎彦さん。新しい誓いを、立ててください」
虎彦さんは深呼吸をした。そして、息子を真っ直ぐ見つめて言った。
「悠斗。お前は...私と妻の、実の子供では、ない」
声が、出た。
初めて、その言葉が声になった。
悠斗さんが静かに頷く。
「でも」
虎彦さんは続ける。涙を流しながら。
「お前は私の息子だ。血が繋がっていようといまいと、それは変わらない。36年前も、今も、これからも」
「父さん...」
「ありがとう。楠木の名を、継いでくれて」
「当たり前だよ」
悠斗さんも泣いている。
「俺は楠木悠斗だから」
二人が抱き合う。
ツキヨミは傘を閉じた。執着が、消えていくのがわかる。
奥さんの誓いは、もう...ない。
新しい誓いだけが、残った。
「血縁の嘘」ではなく、「血縁を越えた真実」として。
3.
帰り道、アイリがツキヨミの肩に座っている。
「ツキヨミ、今日のお仕事、良かったね!」
「ああ...。うん」
「でもさ」アイリは少し考えてから言う。
「血が繋がってなくても、家族って家族だよね」
「そうだね...」
「じゃあさ」アイリはツキヨミの頭をぽんぽん叩く。
「あたしとツキヨミも、家族?」
ツキヨミは少し考える。
「まあ...。相棒、だからね」
「相棒かー」アイリは笑う。
「それでもいいや! ずっと一緒だもんね!」
ツキヨミは何も言わない。
「ずっと一緒」という言葉が、少し胸に刺さる。
アイリは、いつか消える。
家族の執着が解ければ、消える。
でも、それは——
「ツキヨミ?」
「ああ...。何でもない」
ツキヨミは傘を肩に担ぎ直した。
夕焼けの中を、二人で歩く。
影は一つだけ。
でも、確かに二人いる。
それが、今は、嬉しかった。
<完>
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