番外編5 絵

※番外編です。アイリが消える前のお話になります。

 自作の「物語創作システム」を使用しています。



「……依頼人は」


黒い傘を持ったツキヨミが、古びたアパートの前で立ち止まる。


「えーっと、二〇三号室の椿さん! あ、でも名前が二つあるよ?」


アイリが依頼書を覗き込んで首を傾げた。赤いリボンが揺れる。


「……二つの名前」


「椿・琥珀と、椿・瑠璃だって。双子さん?」


「……違う」


ツキヨミは階段を上り、二〇三号室のドアをノックした。


「はい……」


ドアが開く。現れたのは二十代半ばの女性。長い黒髪に、疲れた表情。


「消す者の、ツキヨミです」


「ああ、来てくださったんですね。どうぞ」


狭い部屋に通されると、女性は深いため息をついた。


「私、琥珀です。いえ、瑠璃でもあります」


「わあ、本当に二つ名前があるんだ!」アイリが目を輝かせる。


「わ、誰……?」


「アイリだよ! ツキヨミの相棒!」


「……見えるんですか」


琥珀は驚いたように目を見開いた。


「そう、半年前から。色々なものが見えるようになって」


「……半年前」ツキヨミが繰り返す。


「はい。交通事故に遭って、三ヶ月意識不明でした。目覚めたら……記憶が全部なくなっていて」


琥珀は震える手でお茶を淹れながら語り始めた。


「病院のベッドで目覚めたとき、私は自分が誰なのか分からなかった。家族が『琥珀』って呼ぶから、ああ、それが私の名前なんだって」


「……それで」


「退院して、この部屋に戻ってきました。でも何も思い出せなくて。ただ……」


琥珀は部屋の隅にある小さな木箱を指さした。


「あの箱だけが、なぜか気になって。開けたら、古い日記が入っていて」


「日記を読んだら……急に、いろんな記憶が流れ込んできたんです。でもそれは私の記憶じゃなかった。誰か別の人の人生が、頭の中に」


アイリが興味深そうに箱を覗き込む。


「これ、すっごく古いよ。昭和初期くらい?」


「……日記の持ち主は」


「椿・瑠璃。この部屋の、大昔の住人だったみたいです」


琥珀は静かに語る。


「瑠璃は、この部屋で亡くなったんです。まだ二十三歳で。病気で。そして……死ぬ前に書いていたんです。『まだ終わってない』って」


「……執着」


「ええ。瑠璃には、やり残したことがあった。叶えたい夢があった。でもそれを果たせないまま死んでしまって」


琥珀は自分の胸に手を当てた。


「私が日記を読んだ瞬間、瑠璃が……目覚めたんです。私の中で」


「二つの人格が共存してるの?」アイリが驚く。


「はい。最初は混乱しました。でも、不思議なことに……瑠璃の記憶のおかげで、私は生活できたんです。料理の仕方も、仕事のやり方も、全部瑠璃が教えてくれた」


琥珀の表情が複雑に歪む。


「でも最近、瑠璃の意識が強くなってきて。気づいたら瑠璃として行動していて、琥珀の意識がなくなっている時間が増えて」


「……消えたくない」


「ええ。私、琥珀として生きたい。でも……」


琥珀は俯いた。


「瑠璃も、やっと叶えられるチャンスを得たって、必死なんです。私の体を使って」


ツキヨミは黙って琥珀を見つめている。アイリが不安そうに彼の袖を引いた。


「ねえ、ツキヨミ。どっちを消すの?」


「……話を聞かせて。瑠璃の、夢を」


「瑠璃は……画家になりたかったんです。でも当時の女性には難しくて。それでも諦めきれなくて、この部屋で絵を描き続けた。そして完成する前に、病気で」


琥珀の目が、突然変わった。


声のトーンが変わる。少し古風な話し方。


「あなたが、消す者……?」


「……瑠璃」


「ええ。私が椿・瑠璃です」


瑠璃の表情は、琥珀とは全く違う。凛として、どこか悲しげ。


「お願い、もう少しだけ時間を。あと少しで、完成するの。私の絵が」


「……絵」


「琥珀の体を借りて、毎晩描いているの。もうすぐ完成する。完成したら、私は満足して消えられる」


「でも琥珀ちゃんの人生は!」アイリが叫ぶ。


「琥珀は……もういないの」


瑠璃の言葉に、部屋の空気が凍りついた。


「……どういう、意味」


「事故で、琥珀は死んだの。脳死状態で、意識は戻らないはずだった。でも私が……私の執着が、この体に残っていた記憶に結びついて、動かし始めた」


「嘘……」アイリが青ざめる。


「今この体を動かしているのは、琥珀の記憶の断片と、私の意識の混合物。『琥珀』という人格は、私が作り出した幻なの」


ツキヨミの目が鋭くなる。


「……なぜ」


「だって、琥珀の家族を悲しませたくなかったから。だから琥珀として振る舞った。でも記憶がないから、苦しくて……それで自分の日記を『見つけた』ふりをして、私として生きることにした」


瑠璃は悲しそうに微笑んだ。


「でも琥珀の記憶の断片が、時々抵抗するの。『これは私じゃない』って。だから二つの人格がいるように見えた」


「……つまり」


「琥珀はもういない。いるのは私だけ。だから消さないで。お願い」


ツキヨミは長い沈黙の後、立ち上がった。


「……違う」


「え?」


「琥珀は、いる」


ツキヨミは瑠璃の目を真っ直ぐ見た。


「記憶の断片じゃない。……琥珀の、執着」


「でも、脳死で……」


「執着は、肉体を超える。……あなたの日記に触れたとき、琥珀の執着が目覚めた。生きたいという、執着が」


アイリがハッとした表情になる。


「そっか! 琥珀ちゃんも、消えたくないから残ってるんだ!」


「……二つの執着。二つの、未練」


ツキヨミは窓の外を見た。


「瑠璃は、絵を完成させたい。琥珀は、生きたい。……どちらも、正しい」


「じゃあ、どうするの?」瑠璃が不安そうに聞く。


「……選択を、あなたに」


「私に?」


「消すか、消さないか。……それを決めるのは、あなたたち」


ツキヨミは黒い傘を取り出した。


「この傘は、執着を解除する。……でも、使い方は二つ」


彼は傘を開いた。内側が月明かりのように白く光る。


「一つは、片方を消す。もう一つは……」


「もう一つは?」


「……両方を残す。共存を、認める」


「そんなことができるの!」アイリが驚く。


「……できる。でも、代償がある」


ツキヨミは真剣な表情で続けた。


「共存を選べば、二人は永遠に一つの体を分け合う。完全に一つになることも、完全に分かれることもできない。……それでも、両方が生きられる」


瑠璃は、いや、琥珀と瑠璃は、しばらく黙っていた。


やがて、二つの意識が同時に語りかけてくる。不思議な、二重の声。


『時間を、ください』


「……三日」


『三日で、決めます』


ツキヨミは頷いた。


三日後、再び二〇三号室を訪れた。


ドアを開けたのは、柔らかな笑顔の女性だった。


「完成しました」


部屋の中央には、大きなキャンバス。そこには夕暮れの海が描かれていた。海に浮かぶ二つの月。


「瑠璃の夢だった絵です。でも、琥珀の記憶も混ざってる。二人で描いた」


「わあ、きれい……」アイリがうっとりする。


「……決めたんですね」


「はい」


女性は優しく微笑んだ。


「私たちは、共存します。琥珀でもあり、瑠璃でもある。どちらか一人じゃなくて、二人で一人」


「……それが、答え」


「ええ。瑠璃は夢を叶えた。琥珀は生きる理由を見つけた。だから、もう執着じゃない。これは……」


「……選択」


「そう。私たちの選択です」


ツキヨミは傘を閉じた。


「……では、これで」


「あ、待ってください」


女性は名刺を取り出した。そこには「椿・琉珀(るはく)」と書かれていた。


「新しい名前にしました。瑠璃と琥珀を合わせて。変ですか?」


「……いや。いい名前」


「ありがとうございます、消す者さん。消さないでくれて」


ツキヨミとアイリが部屋を出ると、アイリが嬉しそうに笑った。


「ねえねえ、今日は消さなかったね!」


「……ああ」


「でもこれでよかったよね。二人とも幸せそうだった」


「……そうだな」


「ツキヨミは、最初から分かってたの? 琥珀ちゃんも残ってるって」


「……いや」


ツキヨミは空を見上げた。


「でも、二つの執着が同時に存在していた。……なら、答えは一つじゃない」


「うん!」


二人は夕暮れの街を歩いていく。


「ねえ、ツキヨミ」


「……何」


「私たちも、ある意味二人で一人だよね。ツキヨミとアイリで」


「……まあ、そうかもな」


「えへへ。じゃあ私たちの名前も合わせちゃう? ツキリとか、アイヨミとか」


「……遠慮する」


「えー! 冷たい!」


アイリの笑い声が、夕暮れに響いた。


その後ろ姿を、窓から琉珀が見送っていた。


彼女の中で、二つの声が優しく語り合っている。


『ありがとう』


『こちらこそ』


『これから、よろしくね』


『うん、よろしく』


二つの意識は、静かに溶け合いながら、一つの未来を見つめていた。


窓際の絵には、二つの月が仲良く輝いている。


琥珀の月と、瑠璃の月が。


(了)

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