第2話 日記
1.
雨上がりの公園だった。
湿った土の匂いが、少し冷たくなってきた風に乗って流れてくる。遠くで子供たちの声。ブランコの軋む音。
ベンチに座るツキヨミの隣で、アイリが空のブランコを見ていた。
「乗りたい!」
アイリが駆け寄って、ブランコに飛び乗る。
でも、揺れない。彼女の身体に重さがないから。
「あれー?」
アイリが笑いながら、足をばたばたさせる。
ツキヨミが立ち上がって、傘の先でブランコを押してあげた。
ゆらり、ゆらり。
「わーい!」
アイリが嬉しそうに笑う。風が彼女の髪を揺らすが、リボンだけが鮮やかに見える。
ツキヨミのスマホが震えた。
画面を見る。仕事の依頼。
「今日は誰の?」
アイリがブランコから飛び降りて、覗き込む。
「…日記。消してほしい、と」
「日記? 秘密がいっぱい?」
「…そうかもね」
ツキヨミが立ち上がる。アイリがついてくる。
公園を出ると、アスファルトが雨に濡れて光っていた。
2.
古いアパートは、駅から少し離れた住宅街にあった。
木造二階建て。外壁の塗装が剥げている。階段を上ると、古い木の匂い。軋む音。
ツキヨミがドアをノックする。
「はい」
穏やかな声。
ドアが開いて、70代くらいの女性が顔を出した。白髪を短く刈り込んでいる。優しそうな目だが、どこか疲れた表情。
「ありがとうございます。来ていただいて」
女性が二人を部屋に招き入れる。
狭い部屋。古い畳の匂い。窓から差し込む午後の光が、埃を照らしている。
「お茶、いかがですか?」
「…ありがとうございます」
ツキヨミが小さく頭を下げる。
アイリは部屋の隅で、古い本棚を見ている。女性はアイリに気づいていない様子。
「あの、日記を消していただきたくて」
女性が静かに言った。
「もう、読み返したくないんです。でも、自分では捨てられなくて」
女性の手が、お茶碗を握る。
「思い出が、重すぎて」
ツキヨミは黙って聞いている。
3.
押し入れの奥。
古い段ボール箱を引っ張り出すと、埃が舞った。くしゃみをするアイリ。でも音は出ない。
箱の中に、何冊かの日記帳。
一番古いものを取り出すと、薄く青い光を放っていた。
「わあ…」
アイリが息を呑む。
「…これが、消すべきもの」
ツキヨミが静かに言った。
日記を開く。昭和40年代の文字。丁寧な、少し震えた筆跡。
若き日の恋愛。夢。希望。
でも、ページをめくるごとに、文字が小さくなっていく。諦めが滲んでいく。
「きれいな字。でも、悲しそう」
アイリが大人びた口調で言った。
「…気づくんだね」
「うん。なんか、息苦しい感じ」
アイリが日記から顔を上げる。
その時、アイリが日記に触れようと手を伸ばした。
ふっと、身体が半透明になった。
今度は少し長い。一秒、二秒、三秒。
「あれ? また?」
アイリが笑いながら、自分の手を見る。
すぐに元に戻る。
「最近多いかも。なんだろね? テヘヘ」
アイリは気にしていない様子。
ツキヨミはじっとアイリを見た。
傘を握る手に、力が入る。
でも、何も言わない。
4.
ツキヨミが窓辺に立った。
外を見る。通りを、学生服の男子が歩いている。15歳くらい。黒いリュックを背負って、うつむき加減に。
小さな花束を持っている。
ツキヨミの視線が止まる。
少年を見ている。
アイリの方を見る。
また少年を見る。
少年は気づかず、角を曲がって見えなくなった。
「ツキヨミ?」
アイリが呼ぶ。
ツキヨミが振り返る。
「…なんでもない」
5.
女性が、日記を手に取った。
「この日記の中の私は、キラキラしてて」
ページをめくる。その手が震えている。
「今の私は、何も叶えられなくて」
窓の外から、風が吹き込む。レースのカーテンが揺れる。
「でも、もう比べるのは疲れました」
女性が日記を閉じた。
「おばあちゃん、今も十分キラキラしてるよ」
アイリが無邪気に言った。
女性が驚いて、アイリを見る。
見られたアイリも驚いた顔をした。
「見えるの?」
「…見える人には」
ツキヨミが小さく答える。
女性がアイリをじっと見た。
目に涙が浮かぶ。でも、笑っている。
「そうね。今の私も、悪くないのかも」
6.
「…消していいですか」
ツキヨミが静かに聞いた。
「お願いします」
女性が頷く。
ツキヨミは傘を開いた。
日記に傘をかぶせる。
「…見ると、悲しいから」
小さく呟く。
傘の下で、青い光がゆっくりと消えていく。
風が吹いた。甘い金木犀の香り。
でも、日記帳そのものは残っている。ただ、光が消えただけ。
ツキヨミは傘を閉じた。
女性が日記を手に取る。
ページをめくる。普通に読める。でも、もう苦しくない。
「ありがとう」
女性が、穏やかに微笑んだ。
「わー、さっぱりしたね!」
アイリが拍手をした。
7.
夕暮れの街を、二人は歩いていた。
少し冷たい風。秋の匂い。
「おばあちゃん、嬉しそうだったね」
アイリが元気に言う。
「…うん」
「思い出って、重いの?」
「…重くなりすぎることがある」
「ふーん。わたし、思い出あんまりないや」
アイリが無邪気に笑う。
ツキヨミは何も言わず、そっとアイリの頭に手を置いた。
アイリが鼻歌を歌いながら、跳ねるように歩いている。
ツキヨミが少し後ろを歩きながら、アイリを見ている。
傘を握る手に、力が入っている。
オレンジ色の夕陽が、二人の影を長く伸ばしていた。
第2話 終わり
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