【ま行】

【ま】


毎日毎日玄関のベルが鳴る。人の気配がなくなった後にそっとポストを見に行くと透明なビニール袋に入ったお菓子。誰が入れたかはわかっている。向かいのおばあちゃんだ。とても優しくて僕を孫のように可愛がってくれていた。

だけど最近は痴呆になってきているらしく、こうやって家に来てはポストにお菓子を入れていく。今日も玄関のベルが鳴る。いつもなら誰も出なければそこで帰っていくのだが、今日はベルの音がいつもより乱暴に何度も押されている。


ドンドンドン!!

ベルを鳴らす音と一緒にドアを叩く音もする。しばらくそれが続き、やっとおさまった。

これが痴呆の症状なら危ないぞ。無意識でやっているなら他の家にも行っているかもしれない。カーテンの隙間から向かいの家を見る。おばあちゃんは家の中に入っていったようだ。心臓が痛い。ポストを見に行くのが怖い。あんなに激しくドアを叩いてまでしてお菓子を渡したいのか?いくら痴呆になったとはいえ元の性格は変わらないだろう。優しいおばあちゃんだ。ポストを見に行くといつもと同じ透明な袋に入ったお菓子。その他に今日は紙が入っている。

「最後にあなたの顔が見たかった」そう書かれていた。なんのことだ?

ガチャリと玄関のドアが開く。

「なによ!ビックリした!あんた家にいたの」そう言って母が入ってくる。

「塩持ってきてちょうだい」

「なに、どっか行ってたの?」

「向かいのおばあちゃんよ。今日告別式だっていうから急いで行ってきたの。あんたも小さい頃からお世話になってたでしょ」母はそう言ってはやく塩を持って来いという。

おかしい。向かいのおばあちゃん?だってさっき家に来たじゃないか。ちゃんと家に帰っていったし……。僕は塩をもって母の肩にかける。

「おばあちゃん、家にいたんじゃないの?」僕が問いかけると母は首をかしげる。

「あんたなに言ってるの?もうずっと前から痴呆で徘徊するから施設に入れたっておじいちゃん言ってたじゃないの。亡くなった後もそのまま葬儀場へ行ったから家には帰ってきてないわよ。ほらどいて」


呆然と立ち尽くしている僕をどかせて母は家の中に入っていった。玄関を見ると透明なビニール袋に入ったお菓子が置いてある。

だけど「最後にあなたの顔が見たかった」と書かれた紙はどこを探しても見つからなかった。


【み】


「見てごらんよ。真っ黒だ」そういって君は両の手のひらを僕に見せた。

「ほんとだぁ!真っ黒だ!」積んである石炭を手にとる。

「見て!僕の手も真っ黒!」得意気に手のひらを見せる。

「これだけあれば僕らもあの汽車に乗れるね!」

「あぁ!乗れるさ!」僕らは両手いっぱいに石炭を持って汽車に走る。そこには石炭をくべて汽車を発車させようとしている運転手さんがいた。


「見て!今日は前よりもっといっぱい持ってきたよ!」僕らは得意げにその石炭を見せる。運転手さんは首を振る。

「君達か。いつもたくさん石炭を持ってきてくれて本当に心からこの汽車に乗せてやりたいと思っている。だが……」運転手さんがなにかを言おうとした瞬間風が吹き、目の前の汽車はなくなっていた。

「今日も僕達を乗せる前に行っちゃったね」

「でもまたすぐ次が来るよ!それまでもっともっといっぱいの石炭を集めよう!」


運転手はその二人の様子を見ていた。

彼らの前からは突然汽車が消えたように見えたのだろうがそれは違う。

こちらとあちらの世界は違うのだ。あの一瞬、交わることが奇跡なのだ。



【む】


「昔はここに村があったんだって。今じゃ影も形もないけど」

「へぇ。そうなんだ」私は水が広がる大きな湖のようになったダムの底を手すりにつかまりながら覗き込む。ダムの底に沈んだ村。住人はどうしたのだろうか。


「見て。また誰か覗き込んでるよ」一人の住人がダムの底から上に向かって指を指す。

「本当だ。気の毒に。もうすぐダムに沈んだ村以外消えてしまうのにね」


【め】


目を覚ますととても晴れた気持ちのいい風が吹き抜ける朝だった。

こんな日は一年を通してもそうないだろうというくらいにみんなが幸せになるような日。

一人の人間が死んだ。とてもあっけない死だった。葬儀には誰も来なかった。家族も友人もいなかった。だけど人間は孤独ではなかった。


白い描がいた。美しい毛並みの白い猫だ。いつも一緒だった。その人間がソファに座るとひざの上にのり、寝る時は布団の中にもぐりこんだ。その人間が死んだ時。家の外まで腐敗臭がし、近隣住人が部屋に入るとそこに白い描はいなかった。白い猫が出入りしているのを見た者はいるが、どこへ行ったかは誰にもわからなかった。気にかける者もいなかった。


月日が流れ、あの人間が埋葬されている墓に白いネリネの花が咲いた。とても白く美しく、誰もが足を止めその花を見た。そしてその花が寄り添うようにもたれかかる墓を見てたくさんの人が祈りを捧げた。安らかにと。白いネリネの花はあの美しい白い猫の様に墓の隣でいつまでも揺れていた。




【も】


物置の中に何年もしまってあった雛人形。

毎年桃の節句がきたとニュースで見る度に思い出す。物置から出して虫干しをしなければいけないと毎年思うのだがそれができない。中を開けるのが少し怖いのだ。

小さい頃は毎年雛人形を飾りその美しい顔を見るのがとても楽しみでいつまでも

雛人形の前から離れられずにいた。この世のものではないような気品漂うたたずまい。引き込まれそうな目。整った顔立ちと華やかな着物。

友人の家に飾ってある雛人形もいっぱい見たけれど、どの家の雛人形よりも自分の雛人形が美しいと思った。お内裏様とお雛様。御付きの人達、どれをとっても美しいのだ。

それが年齢を重ねた今の私の心をざわつかせる。物置の箱から出した時に恨めしく私を見るのではないか。顔が欠けているのではないか。口が裂けているのではないか。思えば思うほど恐ろしくなる。だがこのままだと一生顔を見ることがなくなってしまう。覚悟を決め、桃の節句がくる前の週の休日。物置から箱を取り出し恐る恐る開けてみた。なんのこともない。そこにはあの小さい時に見たままの美しい顔が並んでいた。恨めしい顔で見ているわけでもなく、ひび割れてもいない。そして口も当然裂けていない。大人になり想像力が豊かになり過ぎていたのだろう。

だがガラスケースは傷んでおり、ダイヤルを回すと雛祭りの歌が流れるオルゴールは少し音ずれがしている気がする。

今すぐは無理だがコンパクトに飾れるように重いガラスケースは処分して、これからは毎年飾れるようにしよう。そう思ってタオルでケースを拭こうと立ち上がる。


「ねぇ」

子供の声がして驚き周りを見回す。誰も居ない。それはそうだ。私はこの家に一人で住んでいるのだから。幻聴か、それか外で遊んでいる子供の声だろう。

「聞こえてるんでしょ」洗面所に向かおうとした時また声がした。幻聴じゃない。私に話しかけている。女の子のような声。その声色は怒っているようだ。

「……誰」姿が見えないのも気味が悪いが、見えたら見えたで嫌だ。だがその言葉に返答はない。

「あんたのせいなんだからね」今度ははっきりとそう聞こえる。

「あんたのせいって……なんのこと」冷汗が出る。走ってこの場から逃げ出したい。

「もうおやめなさい」今度は違う方向から凛とした澄んだ声が聞こえた。その声は気軽に話しかけることができない、気軽に話しかけるのを許さないといった感じの声だった。

「なんでよ……」小さな子供の声がまた聞こえる。だが今度は敵意があるというよりは悲しそうな声だった。そこからは誰も声を発せず、私もその場から動けないでいた。沈黙をやぶったのは小さな子供の声。

「あんたのせいで私はずっとずっと独りぼっちよ……」そう聞こえた後、小さな声と気配は消えた。雛人形の方を見ると人形達は優しい笑顔のまま。


あぁ、そうか。

私はその声の主が誰だかわかってしまった。いつまでも避けていたその声の主を。そして人形達をまた箱に戻した。来年からはちゃんと毎年顔を見られるように目が付く場所に置いて。

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