【な行】
【な】
「なんで泣いてるのぉ」公園のベンチで体育座りをしてひざを抱えていた僕に誰かが声をかけてきた。辺りも暗くなり始め、大人に早く家に帰りなさいと怒られると思い少し顔を上げて声の主を確認する。
そこに立っていたのは口がどこかもわからない、真っ黒な大きい影。こんな大きい影は見たことがない。人の形をしているものでは。公園のジャングルジムより大きく、それが僕の前に覆い被さるように立っているものだから、影が動く度に夜が僕を包んでしまうようだ。怖くて動けない。
この場所から早く立ち去らなければ。僕の本能がそうしろと心で叫ぶ。
「怖いものでも見たのぅ」動けないでいるとソレは言った。僕は目をそらす。
ソレが動き、僕はのまれてしまうと思い両足に顔を埋めてできるだけ小さく丸くなった。
沈黙の世界。遠くで車の音や風のざわめきが聞こえる。もう顔を上げてもいいだろうか。影はいなくなったのだろうか。その時ベンチがギシリと音を立て揺れた。
恐る恐る横を見るとさっきまで目の前に立っていた黒い影が横に座っている。
「怖くなくなるまでここにいてあげるょぅ」そう影は言ってごそごそ動いている。
怖いのは君なんだけどな……。そう思ったが隣に座ったその影は最初に見た時より怖くなかった。僕よりは倍以上大きいけど、見下ろされているよりは座っている方が小さく見えるし、僕のことを本当に心配していると伝わる優しい空気感。
敵意をもっていたり、僕をどこかへさらおうとしているわけではなさそう。ただ隣にいてくれる。今の僕はそれだけで十分だ。
「どこにいるのー?もう怒ってないから帰ってらっしゃい」遠くの方で声がする。
「お母さんだ」僕は鼻をすすり影の方を見る。
「もぉ大丈夫なのぉ」影は言う。
「大丈夫。ありがとう」
僕はなにかお礼はできないかとポケットの中に入っていたオレンジ味の飴を影に渡した。
「これ、飴っていうんだ。美味しいよ。一緒にいてくれてありがとう」
影は飴を口らしき部分に袋ごと放り込む。
「おいしいぃいねぇぇえ」見えない顔の辺りが笑っているようだった。
「バイバイ」そう言って僕はお母さんの声のする方に走った。
「こんな遅くに家を飛び出して心配するじゃないの!」お母さんはそう言って僕を抱きしめた。僕とお母さんは手を繋ぎ家の方へ歩き出す。
振り返るとさっきの公園から薄オレンジのとても大きな影がこちらに手を振っていた。
僕も小さく手を振った。
【に】
《偽物だ》
ルームシェアをしていた彼女が帰宅した。
「ただいまぁ。疲れたー!」そう言ってソファに荷物を置く彼女。彼女とは小さい頃からの幼馴染でずっと一緒だった。大学へ行く為に上京するという彼女に便乗して私も進学を決める。上京したからといってやりたいことも特にないが、この田舎にいても町役場に就職か早く嫁にいけって口うるさく言われて好きでもない人と見合い結婚になりそうだし。それなら都会に出て少し冒険してみるのもいい。
彼女は将来性のある給料がいい企業へ勤めたいという。頭がよかったし、きっとそれは叶うだろう。だが勉強はしなきゃいけないし、家賃や光熱費を稼ぐ為にアルバイトをするとそっちに気をとられ単位を落としかねない。そういった理由もありルームシェアしないかと提案された。大学は違ったけどお互いが通いやすい場所で家を探せばいいし、家賃や光熱費、食費もまとめれば半分にできる。アルバイトだってお小遣い稼ぎくらいなら楽しめるだろう。私は彼女の話にのった。
一ヶ月が経ち、半年が経ち、一年が経とうとしていた。私達は違う大学だったし、アルバイト先も違ったからちょうどいい距離感をもって生活できていた。
小さい頃からお互いのことはわかっていたから何が嫌だとかこれはいいと言った境界線はわかっている。だから男を家に連れ込んだり知らない友人を連れてくるなんてことは暗黙の了解でしなかったし、お互い共通の知り合い以外の人間関係にも口出しはなし。知らない人の話とか愚痴を聞くだけでも疲れるし。
「あれ?どうしたの?いつもより機嫌悪そうじゃん」彼女はそう言って私を見る。
「はい、お土産。ビール買ってきたから一緒に飲もうよ」そう言って彼女は服を着替えて戻ってきた。
「ご飯も食べてないからさ、お風呂入る前に先一杯ね」そう言ってビールの缶を開けて私の前に出す。
「かんぱーい!」そう言って彼女は私のビール缶にカツンと缶を当て一気にビールを流し込む。
「美味しい!ほら、まだあるから飲んで飲んで。あとこれね。最近大学の近くにできた総菜屋が美味しいって聞いたから買ってきたの。きっと気に入ると思う」そう言って彼女は大口を開けてパックのご飯と一緒に総菜を頬張る。
「そういえば聞いてよ。今日彼がさ、女の子と歩いてるの見ちゃって。黙ってるのは気分悪いじゃん?だから聞いたら後輩だって言うんだけど怪しいんだよねぇ」彼女は二本目のビールに手をかける。
「それにこの間話した今つるんでる友達。〇〇と〇〇って子が男関係で色々あったみたいでさ。めっちゃ気まずいの。グループ行動してるんだからもっと気を使ってほしいよねぇ。あぁー。あんたが同じ大学だったらなぁ」そういって缶を両手で包み机に突っ伏す。
「それにバイト先のセクハラじじぃ!あいつ今日もまたベタベタしてきてさ。気持ち悪いっての!バイト変えようかなぁ……」
ねぇ。もうそういう話を私にしないでよ。彼氏だって友達だってあんたのことちゃんと好きだし悪いと思ってるよ。私は知ってる。
ねぇ。もう私に話しかけるのやめなよ。忘れろとは言わないけどさ。あんたの言葉に返事を返すこともできないんだから。
ねぇ。そこにいるのは《偽物》の私だよ。紙切れに印刷されたただの写真。
ねぇ。早くこの家を出なよ。一人で家賃を払うのは厳しいでしょ?あんたには夢があるんだから。アルバイトの時間増やしてセクハラされてる場合じゃないでしょ?
あとこれだけは言っとく。暗黙の了解だった知らない人の愚痴や人間関係の話。あんたは毎日私に言っていたからルームシェアはもう解消ね。
【ぬ】
布が落ちていた。汚れた布だ。触ればばい菌がつきそうだ。誰かが落としたのだろう。落としたことも気付かずあのままなのだろうな。俺には関係ないけど。
河原を歩く。今はそれどころではないのだ。ここも駄目、あそこも駄目。まったくこの世界は静かに休めるところはないのか。陽が傾き始めている。今日こそはと思ったのに。立ち止まり座れるくらいの石があったのでそこに座る。小さな石を拾い川に投げる。ポチャンと音を立てて石が沈む音がする。今日は橋の下で野宿でもするか。いや、こんな所で寝られるか?せめて公園とかだろ。
川の方を見ていると視界にヒラヒラと何かが見えた。さっきの布だ。ここまで飛んできたのか。立ち上がり手を伸ばそうとすると布はまたヒラヒラと飛び、川の側の枝に引っかかる。
半分くらい浸かったからだろうか。
布は汚れが少しとれて白くなっている。これなら触っても平気だろう。布を手にとったがまだ汚れていたので川の水で洗うとそれなりに綺麗な布だ。悪くないな。使う当てもないが物が綺麗になるのを見るのは悪くない。
それにしてもこの布を見て思ったが人は見た目、物もそうなんだな。さっきまで触るのさえ嫌悪したのに今は綺麗になった布を何事もなかったように触っている。
結局俺もそうか。自分が見た目で辛い思いをしたのに同じことをしている。小さい頃に泣くのがうるさいと母親に熱湯をかけられ顔と腕の半身を火傷。その
だがそんな人間が気に入らない奴もたくさんいた。優等生だとか、真面目君だとか言いがかりをつけては毎日嫌がらせをしてくる。
不幸だ不幸だと言ってる人間が世の中にはたくさんいるがどうだろうか。
毎日弁当の食べかすを頭からかけられ、掃除用具についた
便器に頭を突っ込まれ汚水で体を洗わされ、それでも汚いからと裸にさせられて水を何時間もかけられたことは?
髪や肌を切られたり、これ以上増えても変わらないだろうと煙草の火やライターで火傷跡をあぶられたことは?
見ているだけで吐き気がする、気持ちが悪いと蹴られて殴られたことは?
家に帰れば食事もろくに与えられず顔を見せるなと言われ真冬にベランダで過ごしたことは?
―それから親に。親に殺されたことは?―
今更考えても仕方がない。もう終わったことだ。復讐しようなんて気もない。したところでどうだっていうんだ。ただ今は居場所がほしい。静かな俺だけの場所。
川の水が流れる音は心地が良い。そう思いながら川から反射する光を見ていると、乾いた布がスルリと手を抜け伸ばした足に広がった。
《静かな場所へ行きたいのですか》
驚いた。布に文字が浮かび上がる。
「あぁ。行きたいね。誰にも干渉されないような静かな場所。暗ければもっといい」俺は布に言葉を返す。布に向かって話している。俺もくるところまできたか。
《なぜ暗い場所がいいのですか》布にまた新しい文字が浮かぶ。
「そりゃ見てわかるだろ。って見えないか、目がないんだからな。俺は醜い姿をしているからそれを少しでも隠したいんだ。他人からも自分からも」布から返事はない。それから少しして。
《わたしにあなたの容姿はわかりませんが……。あなたは汚れたわたしを綺麗にしてくれました。だから心は綺麗な人です》
なに言ってんだ、布のくせに。生意気だ。それに見えていないからそんなことが言える。昔家にきた宗教家もそんなことを言っていた。俺が玄関を開けると驚いた顔をしてその後笑顔をつくろい、見た目ではなく人は中身です。あなたは神にお仕えするに値する清らかな心をもっているとか言ってやがった。
なにが神にお仕えするに値する清らかな心をもっているだ。同じ見た目になってみろ。同じ人生を歩んでみろ。そんなこと綺麗事だって、すぐ神などいないと天に唾を吐くだろう。
「そういうのいいから。知ってるなら教えてくれよ、静かで暗い場所。最悪暗くなくてもいい、静かであれば。あるなら今すぐ連れて行ってくれよ」
また少しして布に文字が浮かび上がる。
《わかりました。では私を腕に巻いて下さい》言う通り腕に布を巻くとクイクイと腕が動く。俺はただ歩くだけ。電車に乗り気付けば
「まだ着かないのかよ」
《明日の昼頃には着くかと》一度ほどけた布にはそう書かれ、また腕に巻き付いた。
「明日の昼って……。マジかよ……」電車は東北方面へ向かっているようだ。俺は揺れる電車が心地よく眠ってしまった。
顔に布が覆いかぶさる。
「うわっ!」驚いて布をはがす。
《着きました。ここからは歩きます。もう少しです》布はまた腕に巻かれる。
「普通に起こしてくれよ……」布はクイクイと先を急かすように腕を引っ張った。
《ここです》そう言って目の前を見るとそこにはとてつもなく大きな家が建っていた。
「どこだよここ?!東北に来たんじゃなかったのか?!」
《そうですよ。場所で言えば東北地方です》
「だけどこんな山奥にこんな豪邸……」周りを見ると都会とはかけ離れ木々に囲まれている。豪邸といっても今どきのデザイナーズなんとかっていうのではなく、教科書に載っているような古い家というか、代々伝わる老舗の店みたいな……。
布は着いてきてといったようにヒラヒラと舞っていく。こんなところで立ち止まっていても仕方ない。俺は布に着いて家の敷地内に入る。
「わっ!」レースのカーテンのような何かを通り抜けた感触。
「なんだ?!」振り向いてもなにもない。布はまわりを行ったり来たりして前に進めと急かしているようだ。家屋の近くには畑が広がっている。色とりどりの花も綺麗に植えられている。目を凝らすとそこに人影が見えた。畑を耕しているようだ。こっちに気付き麦わら帽子を上げる。
「やぁ、新しいお客さんだ。今お茶を出しますからそこの縁側にでも座っていて下さい」
【ね】
「ねぇ。たまにさ、自分が自分じゃないって思うことない?」マリサがコンビニで買った煙草の箱を開けながら言う。
「んー?どうだろう?マリサは?」
「そうだなぁ……。じゃあさ、私がマリサじゃないって言ったらどうする?」
マリサはライターをカチカチして煙草に火をつける。またオカルト本でも読んだのか?マリサは時々不思議なことを言っては楽しませてくれるけど今度はこれか。
「見た感じ変わったとこはないと思うけど」
「まぁ見た目で言えば……ね。でももしかしたら地球外生命体の王女様かもよ?」マリサはクスクス笑う。
「なんかの映画で見たわ、その設定。はいはい、王女様ね。で、ほんとのとこなにが言いたいの?王女様とでも呼んでほしいわけ?」私はふざけて笑う。マリサも笑う。
「まぁ冗談はおいといて。本当にそうだったらどうする?」私はまだこの遊びに付き合わなきゃいけないのかと首を振る。
「あー。どこかの宇宙?えっと地球外生命体だっけ?そうねぇ……。まぁマリサはマリサだから特になにも変わらないかな」
マリサはつまらなさそうにタバコを大きく肺に吸い込みため息と共に煙を口から吐き出す。
「夢もなんもないなぁ。ちょっと、なんかさぁ……。あるじゃん?ほら、思い当たることがそういえばあったけどあれって……?みたいな」マリサはいつも変わったことばかり言ってるから、地球外生命体と言えばそうなのかもなとも思う。でも確信はない。
それにね、マリサ。本当の地球外生命体はそんなこと自分からは言わないんだよ。
【の】
「脳死です。今後のことですがどうしますか?選択肢として人工呼吸器をつけて生命を維持させることはできます。ですが意識が戻る事はありません。もう一つは人工呼吸器をつけず、最期の時を待つといった選択です」
どうしますか?もうどうしようもないだろ。だって脳死なんだろ?もう目を覚ますことはないんだろ?人工呼吸器で生かしてもどれだけ生きるかわからないんだろ?大体それは生きてるって言うのか?
幼少期に両親を事故で亡くし、弟と二人で親戚の家に引き取られた。だが親戚家族とうまく馴染めず施設に入る。弟とは歳が離れていたからそれからずっと俺が親代わりをしてきた。施設暮らしと弟が馬鹿にされるのが悔しくて十八歳になった時に弟を連れて施設を出た。弟の学費の為に少しでも多く稼げる仕事を探し、悪いこともたくさんした。
その弟が事故で脳死だ。まだ十五だ。これから楽しい事がたくさんあるはずだったのに。誰からも好かれる明るい子で俺なんかのことをいつも心配してくれた。
危ないから俺がいない時はなにもしなくてもいいと言っても料理を作って、どんなに遅く帰っても飯を食べずに宿題をしながら待っている。育ち盛りなんだからいい加減にしろ、俺を待たなくてもいいから食べて寝ろと言っても兄ちゃんと一緒にご飯を食べるのが一番美味しいからと言ってそこは絶対に曲げなかった。
そんな弟がいなくなる。もうどうにもできないなんて。代われるならどんなにいいだろう。俺よりも弟の方が生きる価値がある。弟の顔を撫でる。暖かい。生きている。
「先生。弟のことなんですが」診察室に行くと医師がこちらを向く。
「決断できましたか」
「はい。ですが少し時間がほしいです。人工呼吸器で弟を生かして下さい」
「わかりました。ですがどのくらい人工呼吸器で生命を維持できるかはわかりません」
「はい。すぐに終わります」医師にそう伝え診察室を出る。
数日後。弟がいる病院へ行き、弟の病室へ行く。
「待たせたな。さぁ行こうか」弟に挨拶をしてから医師の元に行く。数日顔を見せないものだから妙な気を起こしていないかと心配していたのだろう。だが予想していたのとは違う姿で現れた俺を見て医師は驚いていた。
「弟の臓器を移植して下さい。使えるところ全部」
「君……。その目はどうしたのかね」片目に包帯を巻いた顔を見て医師は言う。
「なんてことないですよ。目を怪我してしまっただけです。移植するには問題ないかと」
「使えるところ全部と言っていたが……。服の下を見せてくれるか?」頷くと医師は服の下を見る。
「君、この包帯は……。まさかこの下の臓器は……」
「手術してくれればわかりますよ。ちゃんと処置しているのでこっちも問題ないかと思います。さぁ早くして下さい。この間にも弟に命の危険は迫っているんですから」医師はもう何も言うまいと言った顔をしていた。
「ほら、見てみろよ。景色が綺麗だろ?お前は目がいいから遠くまではっきり見える。まぁ、もう片方はぼろぼろの俺の目だけど。他は体中にガタがきていた俺でもこんな風に山を登れるなんて思えないほど足取りが軽い」小さい時の遠足で来た山に俺と弟は来ていた。
「これからはずっと兄ちゃんと一緒だからな。見る景色すべて一緒に見ていくんだ。兄ちゃんが死ぬまでずっと、だ」
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