第29話 誰かから見たあなた
(寒い……)
真っ暗な闇に纏わりつかれ、どこまでもその暗闇に沈み込みながら、ラーラマリーは体の内が急速に冷え、凍りついて行くような感覚に襲われた。
(ここは……寒くて……寂しくて、怖い……)
恐ろしい筈なのに、体の力がどんどん抜けて、眠りにつくように感情が凪いでいき、水色の瞳は輝きを失っていく。
どれほど沈み込んだのか、それとも本当は最初からずっとそこにいたのか、気付けばラーラマリーはしんと静まり返った漆黒の中に立っていた。
(ここは……どこ? 早く帰りたい。でも……どこへ? 私はどこへ帰るの?)
漠然とした不安が彼女を包むが、体も表情も、指の一本ですらぴくりとも動かない。
帰りたい。
それだけはわかる。
だが、何かに目隠しをされたように、それ以外の事が何も頭に浮かんで来ない。
ただひたすらに暗闇を見つめていると、不意に真後ろから忍び寄った影が、ラーラマリーの耳元で囁いた。
「可哀想に」
言葉とは裏腹に、その声音は粘つくような笑いを含んでいる。
「お前は本当に可哀想だ」
「かわい……そう……?」
頭が働かずラーラマリーがそのまま繰り返すと、影は喜びを滲ませ、放つ呪詛を彼女に染み込ませるように、さらに言葉を重ねた。
「そうだ……お前は可哀想だ。突然家族と引き裂かれ、一人で森に放りこまれ……何も知らずのうのうと生きる者達のために、なぜ善良なお前一人が犠牲になる必要がある? お前を生贄に差し出せだなんて、ああ、なんて酷い事だろう。どうしてそんな残酷なことができる? 本当に可哀想だ。哀れすぎて、見ていられない」
「私が……かわいそう……」
「お前は孤独だ。お前は一人ぼっちだ。国民の平和と引き換えに、みんなが、お前の死を望んでいる。生贄という犠牲になれと囁いている。可哀想だなあ、可哀想だなあ。なあ、ラーラマリー……一体誰が、お前をそんなふうに苦しめているんだ?」
「……だれが……?」
その問いは、まるで静寂の湖面に投げられた小石のように、大きなさざなみを作ってラーラマリーの心に広がっていく。
(だれが……誰が? 誰が私を一人にさせたの? ベルホルト陛下が王命を下して……ううん、違うわ。私が生贄になったのは、選ばれたからだわ。選ばれた……? それは誰に? 私を生贄にと望んだのは──)
「花喰い竜だよ」
ラーラマリーが答えに辿り着くのと同時。
まるで心を読んだかのように、耳元で影がさも楽しそうに悍ましい声で囁いた。
「花喰い竜だよ。あいつのせいで、お前はこんなに可哀想な目に遭って苦しんでいる。それに、ああ! なんて酷いんだ! 花喰い竜は、心優しいお前を騙しているんだぞ?」
「騙す……?」
芝居がかった影の声が、ラーラマリーの心にどんどんと絡みついて離れない。
不安。怒り。悲しみ。寂しさ。惨めさ。恐怖。苦しみ。
様々な重たく冷たい感情が、無理矢理に体の中に詰め込まれていくように体が寒い。
「ああ、そうだ。お前は騙されている。悲しいよなあ? 信じられない悲劇だ。愛していると思っていた相手に騙されているなんて。本当に可哀想だ」
「愛している相手……?」
その言葉で、ラーラマリーの心に、ジークヴァルトの笑顔が浮かぶ。
優しく甘やかに細められた金の瞳。
靡く美しい赤い髪。
抱きとめてくれる温かな熱。
頬に触れる大きな手。
名を呼ぶ低く穏やかな声。
「そうだ……ジーク……。私……ジークのところへ帰りたいんだわ」
ラーラマリーがそう呟いた瞬間、歓喜に震えた影は笑いを押し殺しながら、ラーラマリーの両目をその手で覆い隠した。
「ジークヴァルト!! お前は奴を愛しているんだな? ああ、可哀想に。騙されているとも知らずに。あいつの本当の姿を知らないなんて!!」
視界が完全に闇に包まれたかと思うと、その影の奥、まるで遠くから夢を眺めているようにザザザと景色が広がった。
「見ろ!! あれが、お前が愛するジークヴァルトの姿だ!! お前を騙し、苦しめる、悍ましい花喰い竜だ!!」
高らかな黒い影の笑い声と共に、ラーラマリーの視界に飛び込んできたのは、森の中で、剣を振るうジークヴァルトの姿だった。
「……ジーク……?」
ラーラマリーは自分の目を疑った。
目の前に見える彼は、ラーラマリーが贈った外套を身に纏っており、ジークヴァルト本人に間違いはない。
だが、古びた絵画のように色褪せた光景の中、ジークヴァルトの背には大きな翼が生え、冷酷な金の瞳は眼光鋭く、瞳孔は縦に裂けている。
その身は殺気立つ重々しい鮮血のような魔力に包まれ、乱れ靡く赤髪と共に揺らめき、まるで全身が赤い鱗に覆われているようだ。
彼の周囲に縋るように迫る黒い影達の中には、人から漏れ出た魔力の残滓であろう、薄らと恐怖に怯える人間の姿が重なって見え、冷たい表情のまま、その核を的確に、そして躊躇いなく次々と剣で貫き薙ぎ払っていくジークヴァルトの姿は、まるで人間を惨殺する恐ろしい竜そのものだった。
両目を覆う黒い影を通して見たそこに、ラーラマリーが知る優しいジークヴァルトは、欠片も存在していなかった。
「これが……ジーク……?」
掠れた声を絞り出せば、もういいとばかりに影は見せていた光景を掻き消した。
「そうだ。ジークヴァルトは花喰い竜だ。お前を苦しめ、家族と引き裂き、騙してお前を弄び、嘲笑っているんだよ」
耳元で囁く声が、ラーラマリーの中にどんどんと降り積っていく。
「帰りたいだろう? よおーく思い出せ。お前が帰りたいのは、ジークヴァルトの所じゃない。愛する家族の所だ。お前が可哀想なのは、全てあいつのせいだ。家に帰れないのも、あいつのせいだ。帰るには、どうすればいい? お前の苦しみや孤独や寂しさを終わらせるには、どうしたらいい? なあ、ラーラマリー……」
身動き一つ取れないラーラマリーの首元に、黒い影の指が一本ずつゆっくりとあてがわれる。
まるで蜘蛛が這い上がるようなそれが、彼女の首を絞めるように両手で包んだ時、愉悦の滲む吐息を混ぜ、最後の呪いの言葉が囁かれた。
「方法は一つだけだ。花喰い竜を──殺せ」
再びその身全てを闇に飲まれたかと思うと、気づいた時には、ラーラマリーは城の奥にあるリュスタールの花畑に立っていた。
ジークヴァルトと笑い合って花輪を編み、輝く飴の甘さに目を細めた──あの場所。
無数の花輪が光る大木に僅かに残る色付いた葉が、冬の冷たい風で音を立てて揺れている。
日は暮れ始め、空は灰と朱の混ざる雲に覆われていた。
「──ラーラマリー!!」
焦りを滲ませた愛しい声に名を呼ばれ振り向けば、肩で息をするジークヴァルトが立っていた。
目が合い、ほっと安堵を浮かべ歩み寄ろうとした彼に、ラーラマリーは白く滑らかな鞘から短剣を引き抜き、磨き上げられた鋭い銀の切先を、真っ直ぐにジークヴァルトへ向けた。
困惑に眉を寄せたジークヴァルトの足が、ぴたりと止まる。
「ジーク……」
青白い顔をしたラーラマリーの口からは、驚く程に冷たい声が出た。
「あなたが……花喰い竜だったの……?」
確信を持った呟きは、問い掛けではない。
ジークヴァルトの金の瞳が怯えるように揺らめき、微かに息を呑む。
魂が抜けたように虚なラーラマリーの水色の瞳は、どんよりと酷く濁っていた。
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