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ネコ屋ネコ太郎

第1話

一 丘の町に暮らす人


彼女の名前は、美咲(みさき)という。


三十四歳。独身。

丘の多い郊外の町の、小高い坂の途中に建つマンションの一室でひとり暮らしをしている。

間取りは一人には少しだけ贅沢な一部屋。窓の外には、低い山の稜線と、遠くを走る電車の明かりが見える。


最寄り駅までは、坂を十分ほど歩いて下る。

駅前にはスーパーとドラッグストアと喫茶店が一軒。

特別おしゃれなわけでもないけれど、暮らしていくにはじゅうぶんな街だ。


そこから電車に揺られておよそ一時間。

乗り換えをひとつ挟んで四十分も走れば、大きな湾を抱えた港町の中心部に着く。

海とビルと観覧車。その少し外れに、彼女の好きな雑貨屋や古い建物が点々と並んでいる。



二 通勤電車と、本で埋めるすき間


彼女の一日は、電車で始まり、電車で終わる。


朝、七時過ぎの各駅停車。

座れた日は文庫本を開き、立っている日はスマホで小説投稿サイトを眺める。

会社までのドア・トゥ・ドアは約一時間。

この往復二時間が、美咲にとって何より大事な“読書の時間”だ。


彼女は、港町に本社を構える中堅企業で働いている。

部署名だけ聞けば「総務・広報」といったところだろうか。

書類を整理し、社内メールをまとめ、社内報の記事を作り、会社のSNSを更新する。

穴のあいたところを、そっと埋めていく役目。


仕事は嫌いではない。

「これが天職です」と胸を張るほどの確信はないけれど、

月末にきちんと給料が振り込まれて、

週末には好きな本を何冊か買える。

それなら当分は、この生活でいいのかもしれない、と思っている。


帰りの電車、窓に映る自分の顔を見て、

「ちゃんと大人の顔になったな」と思う夜もあれば、

「中身はあんまり変わってないのに」と苦笑する夜もある。


部屋に帰ると、簡単な夕食を作り、シャワーを浴び、

ベッドに転がって、また本を開く。

気がつけば日付が変わっていて、明日の朝の自分に軽く謝りながら、電気を消す。



三 聞き役としての気質


美咲はいわゆる“聞き役”の人間だ。


飲み会に行けば、自然と相談役のポジションに座っている。

愚痴をこぼしたい同僚、恋バナをしたい後輩、将来の不安を語りたい友人。

彼女は相づちを打ちながら、必要最低限の言葉だけを添える。


誰かのことを、簡単に嫌いになれない性格だ。

「きっとこの人にも、この人なりの事情があるのだろう」と考えてしまう。

それは現実の人間に対してだけでなく、物語の登場人物にも向けられている。


主人公が好きだからといって、敵役をただ憎むことができない。

悪役の行動にも「そうせざるを得なかった何か」があるのでは、と想像してしまう。

彼女が群像劇を好むのは、一人の視点だけでは世界を見切れない、と知っているからだ。


感情的になりやすいわけではない。

むしろ、どちらかと言えば冷静だ。

ただ、心の中ではいつも何かを比較し、照らし合わせている。

「もし自分だったらどうするか」「この人の選択はどこから来たのか」と。



四 群像劇との出会い


美咲にとって、小説は「現実からの逃避」だけではない。

目の前の世界とは少しずれたところにある、もう一つの視界だ。


日常から完全に離れたいときもあるけれど、

それ以上に、自分の生活とどこか地続きの物語が好きだ。

現実にはありそうもない設定でも構わない。

そこにいる人物たちの心の揺れが、手のひらに載るくらいのサイズで描かれているなら、安心して読める。


ある夜、小説投稿サイトをなんとなく巡回していて、

「港町」「雑貨屋」「日常」「群像劇」というタグが並んだ作品を見つけた。


『蒼井屋本舗雑記帳』。

タイトルをクリックして、一話だけ読むつもりが、

気がつけば、いくつものエピソードを続けて読み進めていた。


大きな湾を抱えた港町の片隅にある、小さな雑貨屋「蒼井屋本舗」。

そこに集う人たちは、少し過剰で、少し不器用で、それでもどこか愛おしい。

誰か一人がすべてを背負うわけではなく、

それぞれが「主役未満」の重さを抱えながら、日々をやり過ごしている。


『私の勇者様』を読んだときもそうだ。

勇者や魔王という大きな看板よりも、

ヨルの視線の揺らぎや、正しさと苦しさが同居する選択に、胸を掴まれた。


「この作者は、人のきれいなところだけを書こうとしていないな」と、美咲は思う。

同時に、「きれいじゃない部分を、わざと汚く描こうともしていない」とも感じる。


その中間にある、どうしようもなさと優しさの温度が、彼女にはちょうどいい。



五 恋愛と家族と、言葉にならないもの


美咲は、まだ結婚していない。


焦っているわけではないが、

まったく気にしていないと言えば嘘になる。

同年代の友人たちは、結婚・出産・離婚・再婚と、

それぞれのタイミングで人生のイベントを通り過ぎていく。


彼女にも、付き合った相手は何人かいた。

ひどく傷つけられた経験はない。

ただ、「ずっと一緒にいる未来」が最後まで描ききれなかった。


相手を嫌いになったわけではない。

お互いに、「ここまでかな」と思う瞬間が来てしまっただけだ。


彼女の恋愛観は、派手ではない。


誰かと劇的に燃え上がる恋よりも、

同じテーブルでごはんを食べて、

同じソファで別々の本を読んで、

それでも居心地が悪くない関係に憧れている。


家族との関係は、悪くない。

実家の両親は健在で、年に数回は帰省する。

兄弟には子どもがいて、「おばちゃん」と呼ばれることにも慣れた。


家族に責められているわけではないのに、

自分で勝手に「ちゃんとした大人」であるべきだとプレッシャーをかけてしまうことがある。


作者の物語の中に出てくる、

こじれた家族や、うまく言葉にできない好意を読むとき、

美咲は少し笑って、少し痛がりながらページをめくる。



六 休日と、小さな幸福の集め方


休日の美咲は、インドアとアウトドアのあいだをふらふらしている。


午前中は洗濯と掃除。

お気に入りのマグカップにコーヒーを淹れ、

床に積み上げた本の山を少しだけ崩して、本棚に戻す。

戻しきれなかった本が、また別の山を作る。


天気のいい日は、電車で港町まで出かけることもある。

海沿いを歩き、古い建物を眺め、

路地裏の喫茶店でランチを取る。

本を一冊だけ持っていき、食後のコーヒーと一緒に読む。


雑貨屋や古書店を見つけると、ふらりと入る。

「ここにもきっと、誰かの物語があったんだろうな」と心の中でつぶやく。


『蒼井屋本舗雑記帳』を読み始めてから、

店員の何気ない一言や、並んだ商品の組み合わせに、

以前より敏感になっている自分に気づく。


夜、部屋に戻ると、スマホで更新通知を確認する。

新しい話が上がっていれば、「今日のごほうび」として読む。

上がっていなければ、昔の話を読み返すか、

同じ作者の別作品を巡る。



七 彼女が思う「この物語を書いている人」


美咲には、ときどき想像してしまう相手がいる。

画面の向こう側で、物語を書いている「誰か」のことだ。


年齢は、自分とそう変わらない気がする。

三十代半ばから後半くらい。

登場人物たちが抱えている生活の重さや、

仕事と日常の距離感が、二十代のそれとは少し違うと感じるからだ。


性別は――ほとんど確信に近い感覚で――「女性かな」と思っている。


誰かの弱さを描くときの距離感や、

恋愛の場面で「言葉にしないままにしておく感情」の置き方が、

自分と近い迷い方をしているように思えるからだ。


きっと、人の話を聞くことの多い仕事をしている。

答えを押しつけるのではなく、

隣に座って「一緒に考える」ことを求められる立場。

そういう人でなければ、この温度の物語は書けない気がする。


住んでいる場所は、海の近くにある古い町だろう。

観光地として知られていながら、少し路地に入ると、

地元の生活のにおいがまだ残っているような場所。


美咲は、作者のことを「先生」とはあまり思っていない。

どこかで暮らしている、名前も顔も知らない、

少し年上の友人のような存在だと感じている。


この人もきっと、

仕事帰りの電車でぐったりしながら、

それでも頭の片隅で物語のことを考えているのだろう。

誰かの愚痴を聞いたり、失敗を笑い合ったりしながら、

その一部をそっと作品の中に流しているのだろう。


AI創作論のシリーズを読んだとき、

彼女は画面の前で小さくうなずいた。


「やっぱりこの人、ひとりで全部抱え込まない人なんだな」と。


AIを、神さまでも敵でもなく、

「一緒に考えてくれる相棒」として扱っているところに、

美咲は勝手に親近感を覚える。


もちろん、美咲は知っている。

自分が思い描いている作者像が、

現実の誰かとどれだけ合っているかなんて、確かめようがないことを。


それでも、ページをめくるたび、更新通知を開くたびに、

どこかで同じ海風を知っている、

同じくらいの年代の誰かがキーボードを叩いている――

そんなふうに思ってしまう。



八 この物語が、彼女にとって何であるか


美咲にとって、作者の物語は、

「自分の感情の整理整頓を、少しだけ手伝ってくれる場所」だ。


自分の人生でうまく言葉にできなかった気持ちが、

どこかの登場人物の一行に、突然現れる。

それを見つけるたびに、

「ああ、そういうことだったのかもしれない」と、

少しだけ呼吸がしやすくなる。


派手などんでん返しも、派手な悪役も、そこにはいない。

その代わりに、「この人はきっとこういうふうにしか生きられなかったんだろうな」という

静かな納得がある。


彼女はきっと、作者の作品の大ファンだと公言するタイプではない。

SNSで大きな声でおすすめすることも、あまりしないかもしれない。


ただ、通勤電車の中で、寝る前の布団の中で、

何度もこっそり読み返す。


人生のどこかで少し疲れたとき、

ふと「またあの港町の話を読もう」と思い出す。


そのとき、画面の向こうには、

海辺の古都で世界を組み立てている誰かと、

港町で静かな騒がしさを生きている登場人物たちがいて、

郊外の丘の町で暮らす彼女は、そこに小さな居場所を見つけている。

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この物語を読んでいるかもしれないあなた ネコ屋ネコ太郎 @kinpika4126

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