軽跳

阿久澤

第1話 とてもとても些細な興味


 その日、僕はスキップをしている女の人を見た。


 高架下、二車線道路を挟んだ反対側の歩道で、手足を大きく振り上げて、ご機嫌な子犬のような可愛らしい笑みを顔一面に広げながら、それはそれは満足そうに直線上に進んでいった。様に見えた。実際は少し距離があり、視力があまり良くない僕は彼女の細かな表情まではわからなかった。


 深夜一時、そこには初めてのバイトがようやく終わり疲労困憊で帰路に着く僕と、向かいからやってくるスキップの彼女しかいなかった。彼女は僕に気づく事なく、速度を落とさぬまま軽快なスピードで僕の視界からするりと消えていった。


 僕は一度振り返り、彼女の遠い後ろ姿を少し眺めた。ポニーテールが上下に揺れて、ロングスカートがフワリと漂う。その姿はきっと適した場所、いや、場所は高架下だっていい。適した状態ですれ違ったのならひどく大人びて見えたに違いない。少なくとも高校生の僕よりはずっと大人だろう。けれど、嬉々としてスキップですれ違った彼女の人物像を僕は纏まった形で模ることができなかった。僕より大人な彼女は、僕よりずっと子供のようにも見える。


 結局僕は眠りにつくまで彼女がどうしてスキップをしていたのか考えていた。彼女を動かす喜びの正体についてあれこれと考えた結果、まぁ彼氏でも出来たのだろうと無難かつ面白みの無い結論を出して深く眠った。朝起きると夢の中に彼女が出てきた気がしたが、角砂糖が珈琲の熱に溶けるよりも早く、夢にいた彼女の輪郭はあっさりと消えてしまった。


 もしも美しい物語ならば、僕らはきっと次の日にも偶然かつ運命的にもう一度出会い、僕が彼女に話しかけ、彼女が笑い、飽きるほどに見た退屈な恋が始まるのだろう。


 しかし次の日も、その次の日も、季節が幾らか入れ替わってもスキップの彼女はそこに現れなかった。僕はバイトが無い日でも深夜一時にわざわざそこを歩いてみたりした。僕は彼女との恋とか出会いとか、そういったものの期待はまるで持っていなかった。ただ、あの時どうしてスキップをしていたのかがどうしても聞きたかった。




「そういえばいつだったかな」


向かいに座り、カレーを口いっぱいに頬張りながらレンは斜め上に目をやって考える。食堂のカレーは可もなく不可もなく無難で面白みのない味で、僕は高一の初めに食べたきり二度と口にすることはなかった。しかしかれは、そんな普通のカレーも出所明けの食事のように感動を持って実に美味しそうに食べる。馬鹿舌なのか、はたまた食に対しての感動を享受しやすいのか、どちらもあり得そうで、僕としてはどちらでもよかった。


「まぁ覚えてないよな」


 僕はそっけなく答え、うどんを啜る。汁は既に緩く、中途半端な温度の麺は気が抜けるほどに味気ない。


「あ、あれかも」


 スプーンの先端を僕に向け、頬張りすぎた口の隙間から苦しそうにレンは言う。飲み込んでから話せよ、と言うと、左手でコップを掴み一気に水を流し込んだ。相変わらず品がない。


「最後っていうと少し話ズレるけどさ」


 ふぅ、と一息つくと、懐かしそうな顔で語り出した。


「小学校の通学路にさ、すげー緩やかな坂があったんだよ。でも、地味にしんどくて長めのやつ」


 レンはスプーンを指揮棒のように細かく振り、その先端を目で追っている。僕はどこを見るのが正しいか分からず、彼の口端についた米粒に焦点を合わせる事にした。


「そこ、行きが登り坂で帰りは下り坂なのね。まぁ行きは半分寝てるから関係ないんだけど、帰りはさ、なんか早く家に着きたい日ってあるだろ?」


僕はほぼ反射的に首肯したが、心の中では疑問符で溢れていた。家に早く帰りたかった日など、果たして有っただろうか。


「でさ、小学校って下り坂見たら、まず走りたがるんだよ。単純無垢で、怖いもの知らずだし、何より体力が有り余ってるからな。しかも、自分の能力以上のスピードが簡単に出せる。だから俺も、俺以外のやつもそこの坂は結構な頻度で走ってたよ」


「小学生らしいな」


僕はまるで自分に小学生だった時代が存在しなかったかの様な口ぶりで言った。しかし、少なくとも僕にそんな思い出は無い。


「でもな、ある日、いつも通りその坂を走ってたらさ、視界の左側から、とんでもないスピードで通り過ぎてった奴がいたんだ。そういえば、そいつも女の子だった」


「そいつが、スキップしてたと」


僕は彼の続く言葉を横取りした。彼は何も答えずに続ける。


「はじめさ、スクーターが来たのかと思ったんだ。あまりに速いから。その子はあっという間に俺を抜いて前の集団も抜いて、坂の下まで下っていった。だから俺もさ、真似してみたんだ。そしたらさ、」


「とんでもないんだ。身体が勝手に前に進んでいくみたいにどんどん加速していって、でも疲れはなくて、不思議な感覚だったな。

ただ––––」


「ただ?」


僕はわざとらしい相槌を入れた。彼は僕の作った僅かな間を満足そうに使って、話のオチを話し始めた。


「そのままスピードが緩められなくてな、そのまま地面に向かって転がり落ちたって言ったんだ。昔話のおにぎりみたいに音を立ててすってんころりんって具合にさ。次の日から松葉杖生活が1ヶ月続いたよ」


「それは––」


「気の毒だったな」


レンは満足そうに頷く。彼は話の引き出しが多く話していて飽きない。まさかスキップという話題でさえ丁度いい話を持っているのは流石だった。しかし、彼は嘘はつかないが話を盛る癖があるので、彼の言った松葉杖1ヶ月は実際2週間程度だっただろう。


「あれ以来スキップってトラウマかも。でも確かに大人になってからはやらないよなぁ」


 うどんの麺はいつの間にか無くなっていた。口の寂しさをすっかり冷え切ったスープで誤魔化し、スマホの画面を見た。


「何時」


「そろそろ一時」


じゃあ、ぼちぼち行きますか。と言いながら、レンは既にトレー持ち、立ち上がっていた。カレーは皿を拭き取ったかの様にその痕跡が無く、品がいいのか悪いのか分からない。


「なんでそんな事聞いたんだ?」


トレーを回収口に戻しながら、レンは当たり前の疑問を口にした。確かに会話の切り口として「最後にスキップしたのはいつか」なんて突拍子がないったらありゃしない。もし、僕があの日の彼女を見かけなかったら、まず一生この質問を他人にする事は無かっただろうし、逆にこの質問をされたらハテナしか思い浮かばないだろう。


「そろそろ、会える気がするんだ」


「なんだそりゃ」


僕は結局彼女については話さなかった。スキップの彼女を見かけてから、そろそろ一年が経とうとしている。



 













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