光のロック

夜賀千速

F#

 さみしいなんて言葉が似合う女の子になんてなりたくなかった。季節が巡るたび、さよならを繰り返すたび、もうここにはいないあの人を思い出す。縋るような空想、叶わない恋、戻らない季節。硬いローファーで歩く通学路は冷たく、銀杏の葉が校舎へと続く道に敷き詰められていた。あなただけを想う日々は夏を過ぎてもう秋だった。


 ねぇ、幸せになろっか。そう何度も繰り返してくれたあの人のこと、ずっと一緒に歩こうねって言ってくれたあの人のこと。忘れてなんか、ないですよ。今幸せだよって、嬉しいよって、そうまっすぐ伝えてくれたあの人のこと。その唇から落ちる言葉、眼鏡の奥の一重まぶた、光に透けた柔い髪。忘れようとしたって、きっとわたしは一生この甘い記憶に囚われて、ずっとこのまま、一人で生きていくんだ。だめだよ、幸せにならなくちゃ。明るい方へ、明るい方へ、進んでいくの。耳元でそんな声が聞こえたような気がして、ふと顔を上げて前を見る。怖いくらいに澄んだ空は、どこか青さが足りなかった。


 目に映る世界の全てが、あの人を思い出すための装置のように思えた。夏の雲を見ればあの人のことを思い出し、散りゆく紅葉を眺めればあの人との記憶を反芻した。春の桜の淡さはあの人そのもののようだったし、儚く消えてしまう雪結晶はあの人によく似ていた。十七年分の色褪せた記憶に新しい色をつけてくれたのは、あの人だった。


 季節のような人だった。ずっとそこにいてくれると思わせて、あたたかい笑顔で振り向いて、すぐにどこかへ消え去ってしまう。瞳のもっとずっと奥にまで美しさを見せるから、忘れられなくなってしまうのだ。


 あの人には笑っていてほしかった。優しい声で名前を呼んでくれたこと、忘れてない。始発電車の中で何度もこっちを向いてくれたこと、忘れてない。視線が絡まってわたしが逸らしてしまっても、また目を合わせて笑ってくれたこと、忘れてない。どこまでも優しくてどこまでも綺麗な人だった。朝の光をそのまま集めたような人だった。あの人の前ではわたしは詩人だった。全てが恋で全てが祈りで、全てが美しい文学だった。


 ね、せんぱい、わたしあなたのことすきですよって。それだけ。それだけ、言えばよかったのだ。


 あの時こうしていれば、とか、あの時こう言っておけば、みたいな。生きるっていうのはそういうことの繰り返しで、きっとみんなそうなのだろうけれど。でもあの時はあれが最善だったのだから、それが過去になっただけなのだから。だからどうしようもできないのかな、なんて。結局そんな結論に辿り着いて、だけどまたすぐ苦しくなったりする。


 もしもあの時口に出していれば、ずっと一緒にいてくださいと言葉を届けていれば。結末は変わっていただろうか。幸せは続いていただろうか。分からない、分からない。さよならだけが人生だとは思わないけれど、たった一度のさよならに人生を狂わされてしまうことはあるのだと思う。この世界にはわたしとあの人しかいないような気がしていた、そういう夜があった。世界から切り取られた部屋の中で、ずっと生きていくのだと思っていた。ばかみたいに滑稽な話だと思う。


 もしもあの時、なんて全部分かっていながらも思い返してしまう、光の降る日々を、自傷行為のように。思い出すことは楽だった。過去に執着することは気持ち良かった。堕落は、楽だ。自分は不幸だと、ずっとそのままでいいと、そう思って生きていくことは簡単だ。もうやって来ない幸せをなぞることも、苦しさに浸ったままでいることも、自分で立ちあがろうとしないことも、悲しい人間で居続けることも。自分を慰めていれば、苦しさから解放されているような気分になれた。幸せになるんだよって、だから自分を大切にするんだよって、言ってくれたあなたがいた。あなたがいた、けれど。


 おはよう人生、幸せになろっか。ちゃんと前を向いて、幸せに向かっていく人生を、生きていく覚悟はあるかい。幾度となく見返したあの人とのメッセージ。光があれば、生きていけるとあの人は言っていた。その光は自分で見つけるしかないのだとも、あの人は言っていた。僕にとっての光はさ、なんて言葉を見つけて苦しくなった。その先に続く言葉を、ソラで言えるほど強く憶えていた。


 幸せはあるだろうか。あの時のまま止まった時計が、あの時のまま止まった心が熔ける瞬間は訪れるだろうか。灰色だったわたしの人生、碌でもないアルバム。あなたが隣にいてくれた時以外の瞬間に美しさを見出すことはできない、と強く思う。あの人がいない世界で幸せをさがすことに、どうしてだか抵抗があった。幸せになってねと、そう何度も伝えられた春のことを、また片隅で思い出していた。


 幸せになろっか、海にでも行こっか、やさしい風が、吹いたらいいね。軽やかで掴めない、羽のついた言葉。あの人が放つ、さざなみのような日本語の響き。宝石をあつめたみたいな瞳、その瞬きを、また思い出していた。


 あの人と出会った頃に切った髪が、もう元の長さに戻っていた。光はあるだろうか、ないだろうか、人生は苦しいものだから、分からない、分からない。だけど光に手を伸ばすことを、忘れてはいけないのだ、とあなたはわたしに教えてくれた。空を見上げたら、冷たい空気が通り過ぎた。いつかハッピーエンドになればいい、と思う。全ての瞬間が、いつか美しい光になればいい。痛みに満ちたあの人のいない世界で、わたしは絶えず祈っている、音が鳴ること、光が差すこと、ハッピーエンドを愛せるようになること。

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光のロック 夜賀千速 @ChihayaYoruga39

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