4-2 モイラ教団
少しくらいなら構わないだろう。ぼくはヴァルハラを離れた。あとで走って戻ればいい。
「住まいはこっちなんです」
彼女はベルで出会った際と違い、今は礼拝者のような服を着ていた。娘さんも同じだ。
「どうして、あのときはベルにいたんですか」
「あの町は、夫の故郷なんです」
「ああ、そうなんですか」
「あなたは命の恩人です」
汚れのない笑顔がぼくに向けられた。
罹患者の列に釘付けのゴキブリを見る目。
口から杭の飛び出た広場の遺体。
それらが脳裏に焼き付いて消えない。消そうとすると、水に沈めた物が浮き上がってくるみたいに、かえって解像度が上がる。
命の恩人……そう言われても、今は素直に受け取ることができない。
でも少しだけ心が和らいだ。
いや、和らいだはずだ。そう強く思うことで、下っ腹から上がってくる吐き気と不安を忘れたい。
嘘でもいいから誰かに感謝されていたい。
「あの、お名前を伺ってもいいですか」
「千鶴です。そういえば名乗ってませんでしたね」
「チヅルさん……珍しい名前ですね。わたしはモイラといいます。娘はシーファです」
「お兄ちゃん、またこれやって!」
シーファちゃんが両手を天へ突き出した。
ぼくがベルで腐敗を吸い取ったときの真似をしているのだろう。
「また今度ね」
ぼくは苦笑いする。
もう人前で力は使わない。
使うつもりはない。
「あの──」
モイラさんが立ち止まった。
何だか困った顔をしてる。
「チヅルさんに、会って欲しい人がいるんです」
*
そこは街外れにある礼拝堂だった。
屋根が青い。
下手くそが塗ったみたいな色してる。
中は明かりがなく薄暗かった。
窓から日差しが少々。
礼拝者用の長椅子が並んでいる。
前に説教台。
長椅子に誰かいる。
「お連れしました」
モイラさんが声をかけた。
振り返ったのは老けた男だった。
背丈が低い。
シーファちゃんより少し高いくらいの背丈だ。
修道服を着ている。
「きみが噂の恩人かね」
「噂?」
「モイラから話は聞いている。腐敗を吸収できるのだろう?」
答えようかどうか迷った。
「まあ、事実なのだろう。彼女が嘘をつくとは思えん。しかし驚きだ。この目で見るまでは信じられん。いや、実演しろとは言わんよ」
しゃがれた声が勝手に喋る。
「しかしだね、吸収されては困るのだ」
「……困る?」
「腐敗は人類に対する罰。これは浄化なのだ」
この人、何言ってるの?
「きみは腐敗がフーリュネから来たことを知っているかね」
「はい……あ、いえ。よくは知りません」
ああ、そうか。
腐敗はフーリュネから来たのか。
というと旧市街か?
よくわからない。
でもウィケットさんも最初はぼくを罹患者だと勘違いした。
旧市街からの脱走者だと思っていたのだろうか。
「ラムの勇者は?」
「はい?」
「まあ知らんわな。無理もない。女王陛下の死後、フーリュネは勇者教会の縄張りとなった。連中はラムの勇者と呼ばれる異界の種族をしょっちゅう呼び寄せとる」
「しょっしゅう?」
「しょっしゅう! 何か質問でも?」
「いえ」
「“ラムの公害”──言うてな、フーリュネ旧市街には無差別な転移空間が多発する。その時空の歪みに巻き込まれ、ブッチャーが各地へ飛来するという仕組みじゃ。マリゼラースの予期せぬ副作用よ。腐敗は触れるだけで感染する。さらに空気感染までするとなると、もう人類には太刀打ちできん。あとは時間の問題じゃ」
老けた男は説教台へ行った。
こちらへ戻って来ようとする男の手に、剣が見えた。
「女王陛下は市民の心に気を配ってくださった。が、しかし勇者教会はそれら市民を食えぬ焼き肉に変えた。焼却という根性論を部下に叩き込んでな。腐敗は裁きじゃ。腐敗は、女王陛下の痛みそのもの。それを取り除くなどあってはならん。お主のその力は、腐敗に対する冒とくじゃ」
モイラさんを振り返り見た。
「どういうことですか」
モイラさんは満面の笑顔を浮かべていた。
笑顔が凍結してる。
まるで晴天の小麦畑で見るような。
この場に不釣り合いな。
気味が悪い。
「少年よ、きみには速やかに自死してもらいたい。世間がきみの存在に気づく前に」
初老のような男が鞘から剣を抜いた。
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